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今週の喝 第978号(2024.02.19~02.25)〜初合同演奏で、椅子から30㎝飛び上がった!〜

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初合同演奏で、椅子から30㎝飛び上がった!〜

 さて、今週は“雲の上の存在”でありました、宝塚歌劇団名誉理事の内海重典先生について書きます。私が一番初めに内海重典先生を知ったのは、中学一年生の時の初夏のことでした。
 この時期は、関西在住の吹奏楽関係者は、「2000人の吹奏楽」という阪急電車の西宮北口駅にあった、(旧)阪急ブレーブスのホームグラウンド西宮球場で行われる大ページェントの練習に入ります。(今は3000人に増員され、大阪京セラドームに変わっています)。
 大方の中学校が4,5校の合同演奏でしたが、私たち今津中学は日本一と言うこともあって、単独でドリル演奏や色々とコミカルな演技を取り混ぜたコンサートを披露しました。そして、このページェントの最後は、大花火大会と2000人の出場メンバーによる合同演奏でエンディングを迎えます。
 私が中学一年生の時の合同演奏の曲目は、ピヨトール・イリイッチ・チャイコフスキー作曲の大序曲「1812年」でした。大砲(キャノン砲)のパートはリハーサルの時は、大太鼓で代用していましたが、本番になると西宮球場の外野に3門のキャノン砲(伊丹に駐屯している陸上自衛隊中部方面隊から持ち込んだもの)が据えられ空砲が鳴らされるとブリーフィングがありました。(作曲家自身が、初演の時に楽譜に書き込みました)。
 私自身、初めて楽器(フルート)を渡されたのが4月11日です。この「2000人の吹奏楽」は大体7月上旬で、初めての公での出演です。「1812年」は、さすがチャイコフスキー大先生の作曲です。とても難しいフィンガリング(指使い)です。でも、私は一所懸命練習し、自分の隣で吹いている関西学院大学のフルーティストがしどろもどろであるにもかかわらず、私はバッチリ練習を整えて出場しました。
 そして、ページェントも終盤を迎え、花火が打ち上げられ、その間にステージが組まれて、いよいよ大序曲「1812年」が始まりました。荘厳なブラスによる“コラール”(賛美歌)で始まり、戦闘場面を描写したアレグロ、そしてナポレオンに勝利したロシア軍が高らかに旧ロシア国家(神よツァーリを護り給え)がフォルテッシモで演奏されます。それに合わせて、三門の大砲がその間隙をぬって(空砲ですが)高らかに撃たれるのです。

 

★★日本を代表する演出家・内海重典先生★★
 その大砲の迫力たるや、筆舌に尽くしがたい音量で、それだけではなく、震動も凄いものでした。完璧に練習していた私も、その音量と震動で、笛を吹きつつ座っている椅子から2~30㎝程飛び上がったように思います。
 こんな演出を企画されるのは、内海重典先生だからこその業です。私が中学一年生の時(1964年)ですから、自衛隊の方々もまだまだ共産党や日教組によってやり玉に挙げられる時期でしたが、内海先生はそんなことはお構いなし!陸上自衛隊の皆さんも寸分違わないリズムで、見事に大砲をチャイコフスキーの楽譜の指示通りに発射します。
 その時の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団を一から作り上げられ長老指揮者としてギネスブックにも載っておられた“朝比奈(あさひな)隆(たかし)”先生です。楽器を手にして3ヶ月チョイなのに、世紀の大指揮者の下で笛を吹けたことを今も誇りに思っています。
 内海重典先生はこの他に、東京ディズニーランドが日本にできた時の開会オープニングセレモニーをはじめ、1970年に開催された大阪万国博覧会大阪御堂筋パレードなどのセレモニーを企画され、その総合ディレクターも兼務された日本を代表する構成演出家でした。もちろん若い時は本家である宝塚歌劇団で「南の哀愁」をはじめ数々のレビューの脚本を手がけられました。
 戦時中は、宝塚歌劇団の劇団員の引率をして慰問団を組み、各地の軍隊を慰問して回ったそうです。ですから阪急の創業者である小林一三さんの完璧なバックアップの元で、ご自分の構成演出の力量を蓄えられました。
 後に、私がNHK大阪放送局で番組を担当していたとき一番にゲストでお出で頂き、私が知りたかった内海先生の裏側をシッカリと聴かせて頂きました。それ以来、とても懇意にして下さって、しょっちゅう我が家にも来て下さいました。
 特に印象深い出来事は、手前味噌ですが、私の誕生日が(1952年)1月16日ですので、知り合った年(1995年)にバースデー・パーティーを開き、その時もお越し下さいました。そして、パーティーも盛り上がり深夜2時頃まで楽しく過ごし、その後、(西宮の北にある)仁川(にがわ)のご自宅までお送りしました。
 その車中で、話題が「地震」に至り、おたがいに「“来る”と思って気をつけましょう」と分かれました。それから2時間も立たない間に下から突き上げるような震動と共に“阪神大震災”が起きたのです。あの日の出来事は我が誕生日の翌日(1995年1月17日)ということもあって、とても印象深い出来事でした。このようにして、家族ぐるみでお付き合いさせて頂いたことが、今は懐かしい思い出です。

 

  この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/