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今週の喝 第962号(2023.10.30~11.05)〜私の周囲は、みなさん錚々(そうそう)としたプロの方ばかり〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
成功への道しるべ!この世は全て催眠704

〜私の周囲は、みなさん錚々(そうそう)としたプロの方ばかり〜

 さて、NHK大阪放送局ラジオ第6スタジオは、私が第1回放送で滑舌の悪さ(言葉を噛んでしまったり、エーアーオー、その、あの等無意味な言葉の連続)で、当時私が足繁く通っていた大阪の日本橋三丁目にあった、オーディオ専門店昭和ケースの店長の中辻さんにも、聞き苦しい放送であったことを指摘され、また浜村淳さんのお化け番組である大阪毎日放送(MBSで今年で50年を迎え、当時もダントツの聴取率を誇っていた)の「ありがとう浜村淳です」の話し運びを目の当たりにして、音楽でなら練習をしてから本番に臨むのに、「日本語は常日ごろから喋っている」から“喋り”の練習を全くせずに打っ付け本番でマイクの前に立ったのです。その結果、長年永続して聴取率をとっている、浜淳さんの見事なお喋りに圧倒され、また私自身もその受け答えが「ハー、エー、はい、いいえ」になり、具体的な内容はほとんど浜淳さんにリードされ、私は只々、回答するだけの惨めなものだったのです。そして年齢は私の母・洋子と同い年の88歳!
 その当時の浜淳さんは、絶好調の時期でしたので私の経歴から、“おもいで酒”の制作過程まで、私以上(?)によく調べられていて、その内容に於いてもダントツに素晴らしいものでした。この方からも、人の生き様、自分が携わる職業に対する執心性、また番組に対する下準備などの周到さを学びました。この辺り、我が師・宇宿允人先生と相通ずるものが多分にありました。逆説的に考えると、私の前に現れる方々(終生深いお付き合いをさせて貰った先生方:得津武史先生宇宿允人先生、高田塚歌劇団の内海重典先生、阪急少年音楽隊の鈴木竹男先生、ラジコンのヘイリコプター模型を世界で初めて飛ばし実用化した笹倉新蔵先生等)は、皆さん個性豊かで、しかも自分の分野のことになると、徹底してこだわりを持って、その分野の長となって活躍しておられたのが共通の性格でした。

 

★★第六スタジオ名物の貯金瓶(びん)★★

 さて、我が第六スタジオは以前にもお話ししましたが、NHKの美人アナウンサーの故・堀内裕子さん(病魔に勝てず癌で逝去されました)が、贅沢にも私のアシスタントを務めてくれ、隣の副調整室には報道部の辣腕の方々である中原ディレクター有本ディレクターが陣取り、毎回30分程度ゲストを迎えてお話を聞くコーナー、私の音楽経歴からその裏話や興味を惹く楽しい話題を20分程度、後はその日のニュースや天気予報など身近な話題の1時間番組でした。そして、私の右傍らにはサントリーの角瓶ウイスキーの空瓶で自ら制作した「チョンボ貯金瓶(ビン)(貯金箱)」を置き、気合いを入れ(家で十分に滑舌の練習は済ませて)番組に臨みました。その甲斐あって貯金瓶には200円を入れただけで済み、中原ディレクターからは、「音楽トークのコーナーも興味ある内容で良かったからこの調子でやってゆこう」とお褒めの言葉を頂戴しました。
 皆さんもご存じと思いますが、この貯金瓶はサントリー角瓶の四角い模様が入ったその縦の筋の一遍の溝にセロテープを貼って丁寧に釘と金槌で(当時は100円硬貨、今なら500円硬貨の直径の長さ)コイン投入のための縦穴を空けます。すると、瓶の中にはコインが入っているのに、目が慣れるまではこの縦穴は発見することが難しいため、みんな瓶の注ぎ口から入れようとしますが、コインの直径の方が大きいため入れることが出来ません。これが私たちが放送しているテーブルの端に鎮座しているのですから、スタジオに来たほとんどのゲストの方は、「これは何のための貯金箱?」と質問をしてきて大概、その話題だけで5~6分使ってしまうことも屡々でした。
 また、この事がNHK大阪放送局のアナウンサー室の耳にも入り、わざわざその貯金瓶を観るためにスタジオにお出でになる有名アナウンサーもおられました。
 さて、こうしてお喋りの猛訓練に明け暮れながらのディスクジョッキーでしたので、一週間に1時間しか仕事がないにもかかわらず、アッという間に次の週の金曜日がやって来ます。そして、私の心に“ファイトの気”がメラメラと燃えさかると、面白いかな、番組に対する聴取者の方々からの反応も多くなり、また、辛辣な内容になってくるのです。我が人生でこんな素晴らしい体験が出来たのも多くの皆さんとの“御縁”の賜物と思います。
 それから、後日、母・洋子から聞いたのですが、番組が始まった当初、夜中に我が父・郁郎(いくお)が夜寝言で、「忠洋、頑張れ!ええぞ!」と言っている声で起きたと聞きました。思い返せば、我が父郁郎とは小学校の頃より、事ある毎に対立し、とうとう家業の畳店を継ぐことなく音楽やDJの道に入ったのです。しかし、父も饒舌(じょうぜつ)で事ある毎に町の皆さんや学校行事で演説をしておりました。ある日、一緒に一献酌み交わしているときに、
 「ワシは、お前が弁護士になったらエエと、よう(良く)思た。」
と話しているのを思い出します。その意図は、私の頭脳のことなど全く関係無しに、自分が得意とする“お喋り”の仕事をしている私に自分の夢を託したのだと思います。こんな話しの後で、母は、
 「あの寝言は、アンタがラジオで話しているのが夢枕に出てきて、アンタを心から応援してたからやと思う」
と、やんわりと「お父さんとはぶつからんといて!」と言わんばかりに、シミジミ語ってくれたことを思い出します。
 親子というのは(特に男同士の関係)本当に複雑な感情の上に成り立っていることを知った出来事でした。

 

  この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/