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今週の喝 第942号(2023.06.12~06.18)〜東京に帰郷後は、毎日自宅の庭の草むしり!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
  成功への道しるべ!この世は全て催眠683


東京に帰郷後は、毎日自宅の庭の草むしり!
                                        
  我が師・宇宿允人先生は、断腸の思いで大阪を去る決心をされました。その時の思いは、
 「私はもう二度とステージには立つまい。タクトを振るまい」
このような決意が頭の中をグルグル廻ります。しかし、東京での生活は、手足をもぎ取られたようで“何もすることがない”のです。そんな時、義母から「事業に失敗したのネ」の一言!
 先生が大阪を去る前日、当時既に結婚していた私は、大阪の南森町にあった先生のアパートへ労いのためお邪魔しました。その時、これまたタイミング良くコンサートマスターの松永みどりさん初め、楽員のメンバーが全員勢揃いしていました(ほとんどが女性)。この時私は、先生の楽団運営に対して、少々丁寧さが欠ける事に口を挟んだため、しばしの間袂を分かっていた時期でした(先生との関係の中で4回ほどこんなことがありました。若気の至りでしょうか)。しかし、何を思ったのか、先生が大阪を去る少し前、私に当時のテレビ漫画のテーマソング(鉄腕アトムなど)のアレンジの依頼を下さったのです。これを、チャンスと捉えて、元通りの関係をお願いすることも踏まえて、先生のアパートを妻(になる予定)の裕子と共にお邪魔したのです。その時、女性のメンバーばかりなのに、先生の部屋はインスタント食品の発泡スチロールの器やら、飲みかけのビールグラスやらが部屋に散乱しておりました。すると突然、
 「君がいないから、私は東京に戻ることに決めたよ」
といつもの言い回しで迎え入れてくれました。
 先生と私がそんなやり取りをしている間に、裕子は何も言わず黙々と先生の部屋の片付けを始めたのです。メンバーは、先生が置いているモノを勝手に触ると叱られると思っていたので、何もしていません。そしてインスタントラーメンですが、テキパキと作って、「先生お食べ下さい」と差し出した途端、先生は美味しそうにペロリと平らげ、「僕の腹具合がよく分かったね。ハッハッハ!」と楽しそうに語って下さいました。そして、
 「君は何か音楽をやるのか?」
と尋ねて下さいました。裕子は、
 「ハイ、大阪音楽大学でソプラノの勉強をしております」
と簡単なやり取りがあり、私のことを許して下さいました。そして、我がアレンジで子供達を対象にしたTV主題歌のコンサートを最後に大阪を去って行かれました。
 帰郷された先生は、毎日毎日黙々と庭の雑草を抜く毎日。また、障子の張り替え、水道のパッキンの取り替えなど、家の補修に精を出し、そのお蔭で、先生はガス工事以外のことは、庭の松の剪定から電気工事に至るまで、プロ並みの腕前でした。

 

★★第1回「宇宿允人の世界

 後に、宇宿先生に「なぜ“ガス工事”はなさらなかったのですか」と尋ねたところ、先生にも師匠(名古屋の庭師の藤田さん)がいて、
 「何をしても良いけれど、ガス工事だけは辞めて下さい」
と諫められたそうです。(理由は、ガスは目に見えないし、爆発すると大変だから)こんな風来坊の生活を東京で送っているある日のことです。大阪で先生のコンサートを聴いたという、秋葉原の某コンピュータ会社の若社長が、先生が東京に戻ったことを聞きつけ、杉並高井戸の自宅を訪問し、
 社長「宇宿さん、もう一度、タクトを取ってくれませんか」
 先生「疲れました。私はもう音楽を辞めたのですよ」
 社長「私が応援しますから、やりましょう」
 先生「それは難しいことですネ。残念ですが……」

こんなやり取りがあり、社長の熱意の下に話し合いが進んで、先生は再び指揮者として舞台に立つことを承諾されました。その時、社長が考えたコンサートのタイトルは、
 「宇宿允人の世界!」
 しかし、自分の名前を冠に付けたコンサートは、後々まで自分自身を縛ることになるので、強く反対されました。何故なら一度でも自分の名前を付けたコンサートを開けば、後へ引けなくなるからです。1回や2回で終わるようなことになれば、周囲からは、
 「宇宿は東京に戻ってきた様だが、やっぱり都落ちは続かない!」
などと笑いものになるのが落ちだからです。
 すると社長は、「大丈夫、大丈夫、私が会社を挙げて応援しますから」と、とても強気の発言に我が師宇宿先生も“寄り切られた”のです。
こうして、1982年10月21日(木)に新宿文化センターに於きまして、第1回「宇宿允人の世界」が開催されたのです。

 

  この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/