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今週の喝 第610号(2016.12.26〜2017.1.1) この世は全て催眠だ(352)〜「逍遙」は固定観念の打破から〜

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この世は全て催眠だ(352
〜「逍遙」は固定観念の打破から

 中国の神仙思想老荘思想、そして、陰陽五行説が、彼らの住まう独自の風土と相まって、自然発生的に生まれた“道教”。その根幹は、「道・徳・無為・柔」の4項目に集約されます。
 そして、この教えは、やがて茶道に引き継がれ日本にやってきます。茶道を一言でいうと「大自然(絶対)に対する“相対”」となります。それは「決して何事にも逆らわない」と言うことです。
 別の言葉では「逍遙(しようよう)」です。辞書では「気ままにあちこちを歩き回ること」とありますが、気ままというと「自分勝手」といった感がありますが、“気まま”こそ、自分の内側から湧いてきた心に対して素直に従うことなのです。自分の心の源泉が、大自然界に対して素直でなければ、人生行路に歪みが生じるのは必定です。ですから、固定観念を育む行為は極力避けることが肝要です。
 固定観念の有無は、双方向から見ると(ゲシュタルト的見地)辻褄が合わなくなったり、素直な人間が気分を害することで、容易に判断できます。つまり、固定観念は都合と事情によって構築されるので、自分自身は正当と思っても、他者には矛盾していることが多々あります。私は、固定観念を持つ人は、単純に「物ぐさ・面倒くさがり」の性質を持っているからだと思います。
 明治期に“逍遙”をペンネームに持つ坪内逍遙が居ますが、彼の代表的評論である「小説神髄」では、江戸時代の勧善懲悪に徹した物語だけが当時受け入れられたのを否定して、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じ、この心理的写実主義によって近代文学の誕生に大きく貢献しました。つまり、心のありのままに逆らうことなく、素直に何事も表現して、自分の内面を描くのが良いとしたのです。 我々人間は、生来の物ぐさ故、固定観念の虜になりやすいので、その縛りから解放しようとしたのです。これが、“相対性”のスタートラインなのです。こんなところから自分のペンネームに“逍遙”を用いたのでしょう。
 
★★心に忠実に「逍遙」の境地を選べ!★★ 
 この逍遙の心で、真の人間の生き方を示した賢者が老子と肩を並べる「荘子(そうじ)」です。老子と荘子は二人一組で“老荘思想”と言われますが、その根本である「道(たお)」を研究したことについては同じですが、その解釈は真逆と言っても良いでしょう。
 老子は「道」を天地万物の根源とし、基本的には、それ自体は不変で「静的」なものであると捉えています。一方、荘子は、道は刻々と変化し続ける「動的」なものと捉え、自らもその変化の波に乗り、逆らわずに逍遙と愉しむことが強調されています。
 どちらが正しいのかではなく、「道」をゲシュタルト的見地で見たと解釈すれば、「道」の本質が明快になるので、やはり“老荘思想”と一括りにした事は賢明な先人の知恵ですね。
 私が思うには、荘子は相当俗世間にイヤな思いをさせられたように思います。その結果、自由な精神の「逍遙」にたどり着き、何ものにも囚われない生き方こそ、自由の極致と悟ったのだと思います。それは、より高い視点から物事を観察し、俯瞰的見地から得た洞察力で物事の有様の本質「道」を捉えたのです。それを荘子は「逍遙遊」として文章に書き残し、悠々自適、何ものにも囚われない境地に至る必要性を説いています。
 その境地は、こせこせしなければ世界は無限に広がり、偏った見方や限定した時間に立つこともなく、天地と一体になることが出来る……というものです。つまり、逍遙に遊べば、それは、天(絶対)に対して完璧な相対性が自分に備わり、絶対と相対の関係こそ“一体化”だとしているのです。
 1191年臨済宗を日本にもたらした榮西禅師によって、南方禅と共に中国「宋」の“茶”の礼法と理想が伝えられましたが、それが、大自然や客人に対しての心からの畏敬の念と共に、相手への思いやりを伝える日本独自の“茶道”に発展して行きます。この茶道こそ、道教を主軸にし、日々の生活を楽しむための我々人間の根本情理を示しているのです。
 荘子が説くように、我々人間や自然、さらには宇宙など全てが相対して変化して行く世界に絶対不変はありません。現在という変化に充ちた世界は、無限の表れであり、「相対の本来の場」なのです。相対性とは、調整を求めるものであり、調整とは「術」であり、人生の術は私たちが環境と絶え間ない調整を繰り返す中に成り立つものです。そして、その根幹である法則性=道は、老子が言うように不変で静的なものです。
 さて、逍遙を謳う老荘思想、そして、大自然に相対する茶道など、何れをとってもそこに共通する概念は「相手が中心であり、我々が主体」つまり、「絶対に対して、相対的姿勢で臨むことこそ、逍遙遊の根本であり、また人生堪能の秘訣である」ということです。これは、今、この章で解説している「催眠法」が「快の至極」であることと合致します。それは、催眠法そのものが、須く相手に対して相対的に対応することで、「快」を生む術であるからです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/