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今週の喝 第152号(2008.3.17〜2008.3.23)〜偉人に学ぶ……白隠禅師(4)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……白隠禅師(4)

 子供の時、「あなたには奇骨(きこつ)(特別な相)がある。必ず世に福をもたらすであろう」と白隠のことを預言した休心房は、非常に素直な感性の持ち主であったと思います。
 どんな人にも、持って生まれた性質があり(仏教では業(ごう)と言います)、それがこの世でのあらゆる出逢い(縁)と影響し合いながら絡み合って、その人間の人生を育んで行きます。これが業縁(カルマ)です。この因縁は素直な心の持ち主であれば、必ず気付くように、我々人間は天(神さま)によって作られました。つまり、私心が高じなければ、周りのことは正確に分かるのです。これを傍目八目といいます。
 古来より「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」といわれるように、大きくなる人間は幼少の頃より、それなりの香りを周囲にふり撒くものです。それを休心房は感じ取り、将来の出逢いを大切にするように(周りの者が大切に育てる)アドバイスしたのです。

 そして、その予言通り、岩二郎(白隠)は十五歳の春に出家します。しかし、最初の師と仰いだ単嶺和尚は、白隠が十七歳の時に亡くなってしまったため、沼津の大聖寺にゆき、法華経を読みふけりましたが、どうも自分の求めているものと違うと感じ、十九歳で寺をはなれ、行脚の旅に出ました。
 二十歳で美濃(岐阜県)の瑞雲寺で馬翁(ばおう)和尚に出逢い、坐禅に励みます。馬翁和尚は当時、美濃の荒馬といわれた桀僧でした。その熱心な姿勢は、白隠が母の死の知らせを受けても、家に帰ることもしなかったことからも覗えます。

=ひたすら道を求めて=
 二十一歳になり、白隠はさらに遍歴を続けます。その足跡は伊予松山(愛媛県)から、備後(広島県)へと続き、宝永四年(1707年)故郷へと向かいます。そしてこの冬に富士山が大爆発を起こし、その惨状を目の当たりにします。敏感な白隠のことです。この悲惨な地獄絵に深く心を動かされたことでしょう。
 そして、二十四歳にして白隠は越後高田(新潟県)の英厳寺(えいげんじ)の性徹(しようてつ)和尚のもとに参じました。この時彼は、先ず第一の悟り、<心身脱落>を体験します。白隠自身が記した『年譜』には、「ひたすら坐禅にふけって十四日目、夜半から夜を徹して坐禅をしていると、夜が静かに明けてきた。その時寺の鐘が鳴った。その瞬間、忽然として大悟した」とあります。それは、透き通った水晶の中に、自分が浮かんでいるような境地がしたという幽体離脱感であったのです。つまり、生死も時間も超えた境地に自分が到達したと思った瞬間でした。
 しかし、そのことを師の性徹和尚に述べても余りいい顔をしませんでした。にもかかわらず、白隠は自分の悟り体験の境地を自負して、我こそはという自惚れの気持ちになってゆきました。その時の白隠の言葉です。「三百年来、いまだ予がごとき痛快に了徹するものはあらず」
日本国中に自分ほど徹底した悟りに到達したものはいないというのです。

 こんな自惚れの白隠のところへ、信州の宗格(そうかく)というものが訪れて、
「私は飯山の正受慧端(しようじゆえたん)という愚堂和尚の孫弟子で至道無難の弟子に当たる人の教えを受けた。是非行ってみたらどうだ」とすすめました。白隠は宗格と共に正受老人のところに赴くのですが、これが運命の分岐点になります。
 白隠は正受老人に拝謁すると、自分の考えを書いた文章(偈文(げぶん))を師に呈しました。すると師は左手にその偈文を握って言いました。
「これは学得底(がくとくてい)だ、見得底(けんとくてい)はどこか」
 学得底というのは頭で得た真理見得底というのは理屈を超えた体験から得た真理のことです。つまり正受老人は、白隠に
「理屈は分かった。お前の本当の悟りを示せ」
と迫りました。白隠も負けじとばかり禅問答(公案)に挑みかかりますが、手も足も出ません。その挙げ句、師は白隠の胸ぐらを掴んで、拳で三十回ほど殴り、長雨の後の廊下の下に突き落としました。白隠は泥んこになって、土の上に横たわり、息も絶え絶えになって動くことも出来ません。その時、師は縁側の上で呵々大笑していたのです。
 我々の様な凡人ならば、ここで訳が分からなくなるところでしょうが、白隠には地獄の責め苦から逃れる方を求める気概(きがい)(一生をかけて極める心)がありました。その魂胆に火が付いたのでしょう。朦朧とした意識の中から、考えるのではなく、感じ取る世界があることに気付き、正受老人のもとで徹底した修行をしてゆきます。

 もし、白隠が正受老人に会わなかったら、会っていても頭脳的理不尽を感じ取ることが出来なかったら等と考えると、偉人と呼ばれる人間になるような人は、常に、天が与えたとしか言いようのない試練や出逢いがあります。
 立派な業績の為に己の使命を全うする人間は、自分に関わる多くの<師匠>の存在に気付くのです。つまり、自分よりもはるかに高次な人間がいることを感じ取り、そこに自分の修練の場を見いだします。「自分が正しい」というような、我(が)丸出しの人間には、とうてい及びも付かない世界なのです。
 あなたの周りにも、多くの師がいるのです。それに気付くことが出来るかどうかが、この世でのカルマの生成なのかも知れません。

   汝、侮るなかれ! 世の中、上には上がある


この続きはまた来週……('-^*)/