M&Uスクール

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今週の喝 第844号(2021.6.21~6.27)この世は全て催眠だ(585)〜主観性と客観性はどっちが正しい感覚なのか?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(585
主観性と客観性はどっちが正しい感覚なのか?

 私が宇宿允人先生にスカウトされて、シュターミッツのフルート協奏曲ト長調で初レコーディングさせて貰ったとき、演奏に対する自分の感覚感性と、マエストロの感じ方が真逆であったことが、私の人生での一番大きなカルチャーショックでした。
 何故、自分の演奏であるにもかかわらず、自分の耳で聴くより他人の耳の方が、また、自分の心より他人の心の感じ方の方が正しいのか……この不思議な現象に、自分自身の感覚器官である六根(眼耳鼻舌身意)が受ける六境(色声香味触法)の間に、何か余分なものがその感覚を狂わせていると気付きました。その証拠に、レコーディングされたものを自分自身で聴いたとき(受け身になってモニター)、やはりマエストロの感性感覚の通りに聞こえるのです。
 これは“耳”だけの問題ではなさそうです。そこで、他の感覚器官も色々と考察してみると、大好きになった異性は「あばたもえくぼ」という諺があるくらい、他者が見ているのと大きな感覚的相違があります。また、「この絵は有名な画家が描いたもの」と解説されると、初めは「何処が良いのかなぁ?」と思っていても、その絵の値段を聞くと同時に、価値あるものに見えてくるから不思議です。また、嗅覚にしても味覚にしても、自分が好みのタイプの異性の香水の香りは、やがて愛着が湧いて好きになってゆくものです。
 そして、私の体験の最たるものですが、小学校三年生の時、我がオジさんのガールフレンドの家に連れていってもらいました。その時のおねぇさんが元キャンディーズの「伊藤蘭」さんそっくりの方で、私は子供乍らに「綺麗な人だなぁ!」と思ったのです。その人が「今日は私があなたのために美味しいトマトサンドイッチを作ってあげるからね」と優しい眼差しで言います。実のところ、その頃の私はトマトが大嫌いでしたが、その人の作ったトマトサンドを食べた途端、その“美味しさ”にウットリとなり、それ以来トマトが大好物になりました

 

★★物事の理解に大切なのは、poco a poco!★★
 このように、私たちの感覚や感性は色々な形に変化して行きます。子供の時に“苦い・不味い”と思ったビールが、いつの間にか大好物になったり、大好きだった香りが、一つの体験を境にイヤな思い出のトリガーとなることも屡(しば)々(しば)です。しかし、それは「人間十人十色というように、千差万別なのか」と具(つぶさ)に調べていったところ、そこには某かの法則があることを発見しました。もちろん、個人体験によって好みが変わることも往々にしてあるでしょう、風評によって付和雷同することもあるでしょうが、それも時間と共に良いものは残り、それ以外は忘れ去られてゆきます。やはり、そのようなことを乗り越えて、良いものは多くの人に支持され、最後に不易(はやりすたりのない領域)となることが分かったのです。
 この人間の感覚の妙味とも言うべき“法則性”を突き止めたのですから、自分の心で“善い”と信じて演奏した楽曲は人の心を打ち、自分が感動した作曲は必ずヒットすること間違いないと思い、その証明に全身全霊を傾けました。
 梅谷忠洋21歳の春、私のライフワークとも言うべき課題と出逢ったのです。そして、それが古希を迎えた今迄、M&U SCHOOLとして結実し、まだまだ研究の余地を残しながらも解説出来るまでに至ったのです。

 さて、このような大命題を自分自身に突きつけたのですが、「何から始めれば良いのか?」全く雲を掴むような心境でした。
 そこで、分からないときは、師匠達の指導や言及に某かのヒントがあると思い、得津先生の練習法、宇宿先生の楽曲解釈など一つ一つ丹念に思い巡らせていたとき、フッと両先生が同じ言葉を言っていたことに気付いたのです。それは、上手く演奏できないとき、また本番で上がる心を防ぐとき、初めから楽譜通りキッチリと演奏しようと思わず、初めはユックリ、そしてそれが無意識に演奏できるようになって初めて、少しずつテンポを上げて行け!ということでした。イタリア語で「poco a poco」(ポコアポコ:だんだん)。ここに、人間の一つの習性があることに気付きました。
 我々人間だけが持つ“能力”……それは、未来を現在の不都合から修正し、無駄を省き正しい形にもってゆく能力です。その為に、私たち人類はその進化の過程の中で、“現実”と“想像”の区別を無くす選択をしました。つまり、想像の世界をありありと現実の世界同様に感じることで、未来に対してシミュレーションする感性を獲得したのです。この事が理解できない人間は、時空系列がゴチャゴチャになり、それこそ自分がイメージした世界と現実の世界の区別がつかなくなります。まさに“目から鱗”……これが、私の研究結果でした。
 従って、「“自分”の考えそのものが障害になるのでは」と思い始めたのです。則ち、“自分”とは、言い換えれば“自分の感覚”です。だから、「それを無くしてしまえば良い」と般若心経が我々に示唆していると考えると、“無眼耳鼻舌身意”の謎が解けてきます。(思い込みかも知れませんが)
 小学六年生で祖母・芳枝が亡くなったとき、我が菩提寺(西宮・海清寺)の住職・春(かす)見(み)文(ぶん)勝(しょう)老大師が、
 「お婆ちゃんのことを思うんやったら、般若心経を意味が分からんでもええさかい、覚えてみなはれ」
と私に言った意味が、ほんの少しですが分かったように思いました。

 

     この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/