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今週の喝 第832号(2021.3.29~4.4)この世は全て催眠だ(573)〜湧き上がる情熱と欲求が「大信根」を育む〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(573

湧き上がる情熱と欲求が「大信根」を育む

 京セラの創業者、稲盛和夫さんが、
「物事は潜在意識に透徹するまで行うことで成就する!」
と言う意味のことを、社員や氏を慕う経営者の会などで、いつも話しておられました。私は“潜在意識”の研究では人後に落ちないと生意気にも自負しておりますから、この意味を正確に解釈してみましょう。
 先ず「物事」ですが、これは会社などでよくあるのは、ノルマ的に課題や数字を与えられ、それを遂行するような態度(心の状態と行動)では、到達することはほぼ不可能でしょう。いや、到達してもそれを継続的成果に結びつけることは至難の業です。ですから、「物事」自体を自分の思念から生み出す“欲求”が必要です。その欲求も自分だけが満足するレベルであれば、やがて挫折の憂き目に遭いかねません。人間は挫けそうになったとき、周囲の声援や支援で己に活を湧き立たせるようになっていますので、他者の“期待”やそれが存在しない故の“苦”を感じることによって、自分の信念がより一層確固たるものになるのです。
 このように(人に言われたのではなく)心からの意志が、物事(=自分の目標)を決定するのです。それでは、人からの要望や会社の仕事としての目標などはどうすれば良いのかというと、先ず始めにやらなければならない事は、「自分の意志」に転換することから始めます。それは、その事を遂行する意義(=何のための行動かという目的意識)を、自分の立場で正確に、明快にして、揺らがない精神を作るのです。
 私は、音楽は小学4年の時に聞いた、ドヴォルザークの「新世界」交響曲により感動を覚え、その虜になりましたが、中学1年で吹奏楽部に入り、フルートパートに配属されたとき、一番初めの感覚は「ゲンナリ」が正直な感想です。
 しかし、二学期になってランパル先生のコンサートを聴き、その本物の音色に触れた途端、私のモチベーションは不退転のものとなりました。これこそ何事もそれを完遂するための条件なのです。白隠禅師の言う「大信根」(自分の内側から問題解決の糸口は見つかる)であり、この感覚・感動なくしては成就などありえないと私は思います。

 

★★人生逃げ場ナシ……!★★

 潜在意識とは、先週号に詳しく解説したように「私たちが生きて行くために必要な機能」であり、それはその人間の日々の活動や思考から無意識化されてゆきます。従って、何事も己の意志を働かせることによって物事を遂行する癖を付けることで「継続は力なり」が実践されるのです。
 その潜在意識「透徹する」とは、寝ても覚めてもその目標(形)と目的(意志)が脳裏から離れなくなるくらいの夢と願望を自分自身に作り、「物事」を“仕事レベル”から“使命=Mission”へ昇華させることで、我々が思春期に体験する恋心のように、無意識レベルで思念が誘発され、何があっても完遂する“魂”への昇華となるのです。
 我々人間は、神より平等に時間と能力(機能)、そして身体や心をバランス良く与えられました。しかし、それらをどのように育み成長させて行くかは、その人間を取り巻く「環境・制度・編成」……つまり、生まれ育った地域や社会的実情や、人や物との出逢いによる影響から、持って生まれた“心”から「性質」を決定してゆきます。そして、その「性質」を舵取り装置として、己の人生に於ける「優先順位と方向性」を選択してゆきます。その時、もし大宇宙の法則から逸脱し、理不尽によって“バランス”が崩れたときは、一大宇宙心霊(法)ともいうべきエネルギーが、“苦”をもって警鐘を鳴らしてきます。すなわち、我々が無碍に忌み嫌う「苦しみ」は、“神のLesson”なのです。このLessonを習得(意識)から修得(無意識)に落とし込めたかどうかが「評価」となって表れるのです。

 ここからは、私の70年近い人生から感じたことを自分なりに結論付けますと、“苦”はそれが「生老病死」のいずれであろうとも、それこそ石川洋先生の明言「人生逃げ場ナシ!」が物語るように、我々は神(天)のチェックを受けているのです。つまり、“苦”こそ神が側にいる証と私は考えました。してみると、苦から解放されるとは、それが成就されたときの歓びや安寧感で心が満たされることです。もう一つ厄介なのは、その者の側から姿を消した時も“一時的に”苦から解放されます。しかし、その後には虚無感が心を支配し、そこに満足感や充実感という人間最大の達成感は存在しません。
 12歳よりフルートを吹き、今も一本の楽器に振り回されながらも挑戦し続けられるのは、私自身がこのことに気付かされた賜物であると確信します。まさにベートーヴェン第九交響曲の「歓喜に寄せて」(シラー作)の歌詞の内容のとおりです。
 
     この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/