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今週の喝 第825号(2021.2.8~2.15)この世は全て催眠だ(566)〜“信”の心は、「学び」からしか得られない!〜

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潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(566

“信”の心は、「学び」からしか得られない

 私は、常日頃より「信じる心」は学ばなければ、自分の性質に取り入れることができず、「疑う感性」は心というものの在り方を勉強しなければ、厄介なことに自然に身につく、と皆さんに伝えて きました。
では、「信じる心」とはどのようにして学習すればよいのでしょうか。それは、「信じる心」とはどういう心なのか……?といった形を学ぶことではありません。逆説的に考えてみて、なぜ「人間は他者を信じられないのか」を探ってゆくと見えてきます。まず、 人を「信じる」ことによって「騙される」という疑念が湧きます。 そして、「騙される」と「損をする」という不利益が生まれると考えます。ではなぜ、「騙される」と「損をする」のでしょうか。其れは 単純に、「信じる」ときの心に“見返り”を無意識の内に求めてしまうからです。つまり、純粋にものごとを信じておらず、信じる心 に“欲得のカビ”を付けているからです。それも無意識に
我々はその生活環境や出逢いの中から体験したことを、性質に組み込み、自分のパーソナリティー(個性)を形作ります。従って、何の勉強もしないと「疑う心」が根付くのは、その人間の周囲(環境・出逢い)に「騙す」輩がいたからです。また、その周囲の 人達も、シッカリと人間の欲望について学んだことがない故、「人は騙すもの」といった概念を無意識に心中に宿すのです。言い方を変えれば、「周囲の環境や出逢いから学んだ」ともいえますが、 なにぶん無意識故、記憶に残らないので、これは「勉強をしていないから」となります。
こうして、人は人間として最も美しい心である「信」を、汚れたまま(目論見を捨てきれず)自分の性質に組み込んで、対人関係を不信に塗れさせて、ほとんどの人間は一生を過ごすのです。人間の感覚や感性で基準となるのは常に“自分”ですから、自分とはどんな人間なのかを振り返ることが肝要なのです。するとほとんどの場合、先ほどいったようにカビを付けたまま「信」を心に定 着させてしまっているので、「疑念」だらけの醜い心のままの一生 をおくります。つまり、自分が疑う心を優先させている故、他者も必ずそうであるとそれこそ「信じている」のです。

 

★★目論見を捨てて“純”になれ!★★

 それでは、信ずる心を修得する為の学びとは何でしょうか。その回答は「無欲恬淡(むよくてんたん)」な性質を養い、その心根であらゆる物事に接することです。
人間世界は、それこそ「人間の数だけ目論見が蔓延っている」といっても過言ではありません。だから人間社会は、お釈迦さまが四苦八苦というよ うに“苦”に覆われているように見えるのです。進学したり、会社に入社 するときも、某かの目論見(言い換えれば野望)が見え隠れします。これを意識して、「純(=ただそれだけ)」で完結することが肝要なのです。
例えば、女性にネックレスをプレゼントするとき、男性は某かの見返り を求めていますね。「そんなことはない!」と断言する方は、とても純粋 なのか、まだ自分の本性に気付いていないかのどちらかです。“純粋”な らば、それが汚されないように、気付いていないならば意識するためにも、「無欲恬淡の心」を養う訓練をすることです。我々の行為が、「純」であ れば、周囲が明るく爽やかな“雰囲気”になることで分かります。これ こそ、私たちが目指す(宗教的ですが)「浄土」の世界です。

 私の二十歳代のスタートは、この意味でとても幸せでした。宇宿先生によってスカウトされ、突然コンチェルトのステージを任され、自分のミスを笑いで誤魔化そうものなら、腰が抜けるほど𠮟咤して下さる環境を与えられたのですから……。ヴィエール室内合奏団のメンバーは、皆さん誰一 人汚れた心を持つ人はおらず、“一所懸命”ただひたすら感動の音楽を求めて練習に次ぐ練習を是としていました
自分の過去を振り返れば、音楽といえば、もちろん純粋な感動(新世界 第 4 楽章)の中からその道を選んだのですが、「コンクールに勝つ」ことを代表に、常に他者よりも優れていたいという(今から思えば)邪心でフ ルートを吹いてきました。
そして、スカウトされてすぐに、素晴らしい才能をもった人達でも、知 らず知らずのうちに他者との競い合いを意識して、多くの先生の“良いとこ取り”に(本人は気付かないうちに)終始して、結局、感性を乱し、何が良くてどこが悪いのかといった、聴衆ならば一目瞭然のことですら、「迷いの種」にしてしまうのです。純粋に「良いものに感動する心」を養ってから多くの師に就けばよいのに、「先ず、良いものを師から学ぼう」として、結局、素晴らしい才能を汚してしまい「迷い」の世界に入る人が大勢います。その結果、理想構築も儘ならないうちに「信」の心は埋もれてしまいます
私も危うくこの「信」を埋もれさせてしまう寸前だったように思います。 それを掘り起こし、“喝”を与えて下さったのが、我がマエストロ・宇宿允人先生でした。先生は、心の歪んだ人達からは“変人・アスペルガー” に見えたかも知れませんが、私からは、音楽に対してこれほど純粋にその美を追究していた人に出逢ったことがありません。この「出逢い」こそ、 私にとって珠玉の宝箱でした。
そして、フルートも私にとっては“純”を教えてくれる師です。それは、 決してフルートが私の技量に合わせてくれることがないからです。私がフ ルートに合わせるしかありません。
今の CORONA 災禍同様、我々が CORONA を研究する以外に併存する手立てはありません。美しい音楽も、我々の側が創り出す以外に存在しないのと同じです。宇宿先生はそのことをなぜ感知されたのか……そんな雑念も捨てて、コンチェルトの練習に一心不乱に邁進する日々でした。

 

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/