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今週の喝  第790号(2020.6.8~6.14)この世は全て催眠だ(531)〜気付け!「今」は未来の前哨戦〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(531
気付け!「今」は未来の前哨戦

 人間(じんかん)万事塞翁が馬……(出典:淮南子)
淮南子(えなんじ)とは、中国前漢の高祖の孫・淮南王劉安(りゅうあん)が編集させた論集です。中国では、度重なる人間の営みに不安を覚える者が多くいたのでしょう。たびたび、このような人生訓が王室、民衆を問わず出典されています。私たちM&U SCHOOLでも過去二年にわたって洪自誠(こうじせい)著「菜根譚」を解説してきました。
 常人は、今(現在の状態)に心が奪われ、それによって右往左往し、その状態がずっと続くように錯覚します。しかし、実際はお釈迦さまが説いたように、「三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果」の中に、我々は漂っているのです。つまり、過去の原因が今を創り、今の判断が未来の結果を産むのです。ですから、「今」何を為せば未来の結果を良好にできるのかが大切なのです。その為にも、人生は苦楽が糾える縄の如く来ることを、いち早く悟るのです。それを理解し、「今」の対処に一つの法則性があることを見いだした人間が「賢者」なのです。
 「人間万事塞翁が馬」のことわざも、この事を正に暗示している名言です。今回のコロナ騒動でも、右往左往した人間の何と多いことでしょうか。そして「第二波……」などと恐怖を掻き立てる報道も、「今」に安心し、気を抜いた人間達がもたらした災禍です。
 「人は愚か」の一言です。私たち音楽の世界でも、オーケストラが三密を避けようなどと、弦楽器1.5㍍、管楽器2㍍の間隔を開けて演奏するなどと、バカなことを言っていますが、7日に行われたウイーンフィルハーモニーのコロナ災禍後の初演奏会では、シッカリと元の体形で素晴らしい演奏を聞かせてくれました。そのようにならしめたのは、自分達の役割、音楽の使命を果たそうとした、心意気からです。もちろん、彼等とてクラスターに襲われることは恐ろしいことです。その為に、COVID-19の性質を熟知し、それに対する対応を明快にして初めて成されるものです。つまり、Gentlemanshipをもって社会を生きることを学んだのです。

 

★★「浪花のことは夢のまた夢」★★
 「人間」……“にんげん”と読めば「各個人」のことですが、“じんかん”と読めば「社会」の意味になります。まさに「人間」には、この二つの意味が複合的に含まれているのです。何でもかんでもSocial Distanceなのか……?これは、人間に関して最も大切な“信頼”の念が失われる前哨だと私は感じています。本当に素直になって、お互いの「じんかん」を大事にするならば、関係性が整合化され、健康を保つことが自分本位(私)ではなく、社会性(公)を保つ最も重要なことと自ずから理解します。
 そのようなスタンスに立って、コンサートのみならずあらゆるスポーツ観戦も、各人のモラルと理性によって開催しないと、無観客コンサートや無観客試合などが定常化し、人間性が失われてゆくことでしょう。そんな時に、音楽の最高峰であるウィーンフィルハーモニー管弦楽団が観客の前で見事にベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を演奏してくれたことに、心から声援と賛辞を送ります。
 With CORONAとは、このように人間性の中でVIRUSと共生して行く精神を育むことだと私は思います。それを忘れた輩によって、今もクラスターが発生している……この世は常に、「バットとコンピュータ理論」のように、下品で粗野な者が一時的に体勢を決定します。しかし、人は学習する能力を持っていますので、今回のコロナ騒動から多くのことを学ぶでしょう。いや、学ぼうとすることこそ人間の底力だと私は思います。
 その底力の原動力は、「出逢い」にあります。人は出逢いによって、色々な影響を受け、また反駁心も生まれてきます。そんな中で、人生を変えるような出逢い(邂逅)を得る人間は、そこに「熱き思い」があり、それが「今」だけのものではなく、過去からその思念を継続し、「今」に満足できず、将来にわたってその事をより深く探求してきた者に“神・天”が与える事象です。つまり、過去・現在・未来(三世)が一つに集約され、己自身の心がそれに「集中」した時に、邂逅は起こるのだと、私は自分の半生を振り返って確証があります。それは、他者を大切に思う気持ち……「にんげん」「じんかん」を問わず、自分一人ではこの世は生きてゆけないことを実感し、欲得抜きで周囲と宥和する事です。「COVID-19は、その事を気付かせるために神が人間に使わした」のかも……!
 人間の性質は二種類!それは、飽き性執着性です。飽き性の人間は全体の95%を越えると思います。彼等に邂逅が起きることは、先ずないでしょう。しかし、残り5%の人間は、欲望へ向かって執着するか、その醜さに気付いて「世のため人のため」に自分の能力を捧げる決心をして、心を一つに“集中”するかに分かれます。その割合も95:5ではないでしょうか。つまり、5%のその又5%に「邂逅」が起こるように私は思います。つまり千人に対して三人弱です。
 この三人に入って、初めて「未来」に人生の照準を合わせる資格と素養が生まれると私は思います。金銭や地位・名誉等は一見素晴らしい価値があるように思いますが、「過ぎてしまえばみんな夢」です。豊臣秀吉の辞世の句、
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことは 夢のまた夢」
が、如実にそれを表しています。
 このように、虚しさを感じつつ逝去した秀吉は、それでも歴史に残る偉業をなしました。出世街道を歩んでいる時期の秀吉ほど痛快な人生はありません。この痛快さは、彼の人との出逢いや事象の解決法にあります。しかし、権力を握ってしまってからの彼には、醜悪さしか感じません。それは、出逢いを排除し、事象を権力で押さえつける傲慢さに由来します。そして、彼自身、満足感を得ること無く、世継ぎに未練を残してこの世を去りました。
 男(人間)なら、この世でやることは「生きている間の一仕事」集中力を養って、人間関係を大切にして、邂逅が生まれるような生き様を後進たちに残しましょう。私も、本当に多くの方々に助けられ、どんなに懇意にして貰ったことでしょうか。だからこそ、二十歳にして街の活性のための「今津音頭」の作曲依頼があり、多くの“一流”の人達との出逢いをいただいたのです。

 

       この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/