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今週の喝 第579号(2016.5.23〜2016.5.29) この世は全て催眠だ(321)〜人はヨイショに弱い生き物!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(321
〜人はヨイショに弱い生き物!

 催眠とは、「心の法則」です。その根本は、人の心と身体は「快」の方向に引き寄せられることから始まります。
 巧言令色鮮し仁(こうげんれいしよく すくなし じん)!……巧みな言葉やおべっかには、真心など無い!という意味ですが、人はこのリップサービス(ヨイショ)にとても弱く、騙される時はいつも言葉からスタートします。
 このように解説する私でも、講演後、聴衆から
 「いやいや、今日の講演は感銘を受けました。常々私が考えていることと同じことを仰るのですから……」
などと言われると、それがリップサービスと分かっていても、気分がよく、その後のビールの味は格別です。
 ここにも、理性と感情のギャップを自分自身の中に感じます。先般も書きましたが、身体に悪いと分かっている酒やタバコを中々止められないのも、我々の感覚や感性、感情に直接「快」として嗜好品がもたらすからです。しかし、タイムラグ(時間経過)を経て、身体を蝕んでゆくことだけは確かです。
 古来より「傍目八目」という諺があります。囲碁に於いて、側で見ていると、対戦同士より傍観者の方が八目も先まで見通せるという客観論から、「人の事は、よく分かる。批判は簡単!」という意味で用いられます。まさに人の行動や倫理の歪みは誰でも指摘できますが、自分に快がもたらされる事象からの脱却は、そこに「快」を伴う限り、一朝一夕には捗りません。
 最近の事例では、清原和博の覚醒剤、舛添要一の公金公私混同など、どんなに有名人になろうとも、どんなに学識経験が高かろうとも、そこに横たわる「快」から逃れることは、至難の業です。私も、小学校3年の時、欲しいプラモデルがあり、家に帰ると母がちゃぶ台の上に財布を置き忘れている……その中身は、丁度同額のお金があり、物欲に負けて黙って寸借したことがありました。その時、母は独り言のように、
 「あれ?お金が一人歩きしたね。シッカリと机の上のプラモ作ってね。でも、お母さんは悲しい!」
 この言葉で、私の物欲プラモGetより、盗みをした後ろめたさの後味の悪さに、途轍もない“不快”を感じ、絶対、このような嫌な思いはしないと心に決めたのでした。
 
★★心地よい不快こそ、反省の礎!★★  
 もしあの時、母が私を叱りつけていたら、叱られた“不快さ”の方が勝ったことでしょう。すると、人の心は快に向かうのと同時に、「私は正しい」という妙なプライドを持っていますので、そこにおかしな意味づけ、嘘を並べ立てても、自分を正当化したでしょう。心が捩(よじ)れて悪いことは、それで無理が通ると、そのやり方が「癖化」されることです。
 先ほども書いたように、巧言令色というリップサービスは、相手に大いなる「快」を与える効力があります。そして、それは実際に行動するより、はるかにEasyで労力を必要としません。ここにまた、人がもって生まれた性質である「楽と得」に向かう心が存在しますので、一旦、言葉で相手を籠絡(ろうらく)できると、それが癖化され、雄弁家にはなれど実働からはほど遠い性質が身に付いてしまいます。それこそ「巧言令色、鮮し仁!」を体現することになるのです。
 孔子が五常(仁義禮智信)で、最初に挙げた“仁”とは、して見ると、実行動を伴った心構え(=真心)と言うことになります。
 私の母は、この観点から見ると、犯人が私であることを見抜いて、その後に私が悪いことをしないようにするためには、悪いことをすることの後味の悪さ(=不快)を教えた(感じさせた)のです。まったくもって、素晴らしい教育法だと思います。これこそ、「催眠の極意」です。
 このようにして見ると、私は母にシッカリと人間教育を受けたことになります。それは、
 「後味の悪さは、心底の反省を促す」
という人間法則です。無理矢理、反省しろ!、謝れ!と大衆の面前に引きずり出して、多くのフラッシュの前で形だけ頭を下げさせても、心にはその人間が悪いにも関わらず、反省はおろか、リベンジ心を植え付けるだけなのです。しかし、現代社会は薄っぺらな感性の上に成り立っていますので、形だけ整えたら“それで良し!”とする、まるで中国文化大革命の紅衛兵の所業と同じです。他人を貶(おとし)めて、自己満足を得、正義感を感じる……その結果、相手方にもリベンジ心が湧き、反撃の時を狙って全てが乱れて行くのです。
 真の反省、心からの謝罪を促すのは、単純に“不快”を感じさせる以外にありません。それは、当事者一人では決して出来るものではありません。私の事例のように、母が私に大いなる不快を与えてくれたことが、60歳を過ぎた私に今も心の傷痕として深いストッパーを提供しています。
 すなわち、人は一人では何も出来ないと言う事を知ることです。清原も桝添も、彼らに「心地よい不快」を与える人間に恵まれていたら、あのような馬鹿な行為に及ばなかったことでしょう。「心地よい不快」を与える人間とは、情動のシステムを熟知した上で、適切は行動をとってくれる人……「催眠の極意」を学んだ人の事なのです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/