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今週の喝 第542号(2015.9.7〜2015.9.13) この世は全て催眠だ(284)〜言葉は慎重に!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(284
〜言葉は慎重に!

 初めに言葉ありき、
  言葉は神と共にありき、
    言葉は神でありき!
 
 これは、「ヨハネによる福音書」の始めの部分です。この冒頭の解釈は、「この世は、神の言葉(ロゴス)から始まった」ということです。私は「宗教は壮大なたとえ話」を聖書やお経、コーランに記していると思っていますので、「神の言葉から始まった」ことを我々の実社会の即して解釈しますと、ロゴスとは根源的なもの、真理というような幅広い意味ですから、
 「人間だけが神と同等に使える“言葉(ロゴス)”を、疎かに用いてはならない」
と、私は解釈しています。つまり、言葉は人間のイメージを触発し、そのイメージによってその人間は行動を決め、この行動の如何によってその人間の命運が決まる重大な発起点を成している故に、嘘やいい加減な情報の垂れ流しを慎まなければならないのです。
 コミュニケーショントラブルの三大セットといわれる「削除・歪曲・一般化」は、これまた、人間の持つ「凡人六原則」の第一条項である「楽と得を求める」性質から、“物事の検証”という面倒な作業を省いて、その人間の思考レベル(程度)で解釈し、その解釈を元に想像力を働かせて、野放図に他人にその「思ったこと」を伝えて行くところに要因が存在します。
 そして、「凡人六原則」の第六条項にある「類項作用:人は類を持って集まる」性質から、同じレベルの人間が引き合い、たむろして、また事象の検証無しに、まことしやかにその情報を理解しようとし、これまた凡人六原則の第2条項にある「自分は正しい」と信ずる心から、「信念化?」して行きます。
 ですからある意味で、信念化するということは“固定観念化”と同じことになり、その信念化が検証に基づくものであれば、その人間の心の揺らぎをなくすることが出来ますが、それが、思い込みから来たものであれば、その信念によって人生を誤ることになりかねません。
 
★★「凡人六原則」を修得せよ!★★ 
 先ほどから、「凡人六原則」のお話をしていますが、これは、私が32歳の時(約30年程前)に、ごく普通の人間(凡人)とは、どのような基軸を持って行動規範を決めているのであろうか?という素朴な疑問からスタートした研究です。そして、過去の自分の失敗、または多くの人達の動向を見て、その特長を6カ条にまとめました。
  凡人六原則
 (1)何事も、検証無しに「私は正しい」と思って行動をする。
 (2)楽と得が出来る方に流れる。
 (3)何事も比べて物事の良否を決める。
 (4)時間を気にする。
 (5)何事も“一事が万事”、同じことを繰り返す。
 (6)良きも悪しきも類をもって集まる。(類項作用)
 
(1)の「自分が正しい」という一見信念化のように見える観念は、これを永年月推し進めるに従って、「自分自身が正当であるという」錯覚に陥り、それを否定する人間は総て敵であるという観念に覆われ、頑固一徹な「我欲人間」になってしまうことが多いのです。
 そして、言葉は荒くなり、その脈絡は終始一貫せず、罵詈雑言や罵倒を含んだ意味の無い(論理が通じない)ものになることで、その判別が出来ます。
 その心の根柢にある観念は、(2)の「楽得最優先」の怠け心から、辛くしんどいことを避けることからスタートしました。
 怠け心というのは、そもそも思考・行動からの離脱といっても良く、「面倒だ」とか「ムリ無理!」と思う事がその発露です。ですから、そこに思考・行動なくしては生まれない“理想”という観念が生まれるはずもなく、それでいて、欲望や要求は増大するため、(3)の何事も他と比較してしか物事判断が出来ません。
 そんな人間は、自分に何もないわけですが、求めるものが無いにもかかわらず、楽得・贅沢の欲望という“虚ろな心”だけは存在するため、いつも何かが足らないという憔悴感に苛まれていて、時間の経過が早く感じると同時に飽き性でもあるのです。ですから、いつも時間が気になる反面、時間を守るという観念は持ち合わせていません。携帯電話やスマホがここまで普及し、その通信手段の内容の第一が遅刻etc.の「言い訳」の通話やMailであるという報告からもわかるでしょう。
 これら総てが、楽得を求める心から生まれていて、「面倒」故に、そこに何の裏付けも取らないため、(5)の如くいつも同じ過ちを繰り返し、また自分の頑固さも手伝って、一事が万事、発展性がありません。このような人は、食べ物、人間を問わず“好き嫌い”が多いため、「好き」同志集まりたがります。また、敵対するのも自分の意識に上がるのですから、同じ観念の持ち主であります。
 古来より「類を持って集まる。類が友を呼ぶ」といいますが、“類”とは、敵対するものも同じ精神レベルであると言うことなのです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/