M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第422号(2013.5.20〜2013.5.26) この世は全て催眠だ(164)〜道を違えれば、才能も泥の中〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(164
〜道を違えれば、才能も泥の中

 何事も、本来の“目的”からかけ離れた理由で“目標”を設定すると、ほとんどが「忘れる」という結果をもたらします。
 例えば、勉強は本来その人間が必要と思い、その知識を智恵に変え、実生活に役立てようとする志からスタートして、初めてものになるのです。しかし、成績を上げるためとか、入試のためという即物的な目的意識で事に当たれば、どんなに優秀な人間であっても、成績が上がり入試に合格すれば、次第に脳裏から離れて(忘れて)ゆきます。
 私も中学生の頃、クラスでとても頭の良い子が、音楽のペーパーテストで100点を取ったのを見て、とても驚きました。彼は、進学校への入試のために“Allegro”の意味やト音記号の書き方をマスターしているに過ぎず、決して音楽に興味を持っていた訳では無かったからです。頭脳明晰な人は、何でも熟(こな)してしまいますが、果たして、ものにする事はできないようです。それが証拠に、後日カラオケバーで偶然で会い、盛り上がって歌った唄の情緒無さには驚きました。
 この様に書いている私は、もしかしたらルサンチマン(弱者のやっかみ)で言っているのかも知れませんが、長いようで短い我々の人生に於いて、何か無駄をしているように感じてなりません。 “坂の上の雲”の主人公・秋山好古(よしふる)が弟の真之(さねゆき)
 「人間は一生に一つのことを成せば良い。だから無駄を省け」
という意味のことを言っていたのが印象的でした。
 そんな訳で、目的と目標が合致しない行動を続けると、人間はやがて、心ない行動そのものが潜在意識にインプット(癖化)され、頭脳明晰という天より与えられた才能を、筋違いなことに用いてしまい、年老いたときに己の足跡を振り返ると、何も無いことに愕然とします。
 人生とは充実感と達成感で以て満足感を得るものです。この様な人間こそ「天才バカボン」なのではないでしょうか。

 

★未完成は目的意識の欠如から★
 目標と目的一致した時、我々の心には人間がこの世に生を受けた最大の意味である“道の体得”が成されたことになります。
 ついこの間、ある方が私に、
 「講演で沢庵和尚の“不動智神妙録”という本の話をしていたので、私も買って読もうとしたんだけど、イヤー、難しくて三ページで根を上げましたよ」
と、私の聡明さを言祝いでくれました。
 しかし、私の学校時代の成績や、現在の物覚えの悪さ(実感として)からして、私がどう見ても聡明であるとは考えられません。これは、謙遜では無く、本当の、誠の、切迫した事実です。(>_<)
 なのに、そのような評価を何故受けるのか……。
よくよく考えてみると、これは、頭脳の方にあるのではなくて、心の方にあると思います。私は、決して難しい本など読みたくも接したくもありませんが、人生に行き詰まった時など、周りに優しい人は多くいるけれど、どうしても、自分自身でしか解決できないことがあることに気付きました。簡単に言えば、自分でしか出来ないことと、他人がいてくれる故に出来ることの二つでしょう。
 お釈迦様の説く「生老病死」などそれの典型で、自分自身に全て降りかかる「苦」の火の粉は、自分自身でしか払いのけることは出来ません。
 しかし、先人達も同じように一様の人間の苦悩を経て聖者となり、その人達が我々後進に「宗教、哲学、思想」などの形で素晴らしい人類遺産として残してくれたのです。
 ですから、私はきっと、どんな人間にも平等にくるであろう災難や苦しみに人一倍弱く、そこから逃れたいという心が強いのだと思います。強いて言えば、「あかんたれ・弱虫」なのでしょう。弱虫だということは、弱虫でなくなりたいと思うか、自暴自棄の負け犬根性で自分自身を卑下してしまうかのどちらかです。
 私は幸いにも、「弱虫でなくなりたい」と思った故に、“強い人間と弱い人間の境目とはどこが分水嶺だろうか”と考えるようになり、そして、争いごと…特に戦争の勝敗に興味をいだき、孫子の兵法などを勉強しながら、自分自身の行為行動に当てはめ、その分かれ目を研究したのです。
 そして、兵法を基にした20数年にわたる自分自身に対する研究と、自分と他人の相違がどこにあるのかの研究で得た結論は、とてもシンプルなものでした。
 それは、
 「自分自身が継続しようとする“対象”をどれだけ、心の底からその修得を望んでいるか否か」
ということでした。もっと簡単に言うと、自分がその修得を“真の目的”としているかどうかに因るのです。
 先ほどの例で言えば、「不動智神妙録」を真から理解し、自分の人生の糧にしようと心から願っているか、それとも、そのような書籍を読んで己自身の知識の一環として、あわよくば他人に「物知り」と言われて自分の虚栄心を満足させられれば程度に考えているかの違いのようなものです。
 したがって、人間は心の底からそのことを望むならば、必ずそれに対するモティベーションが湧いてきて、どんなに難解なことでも立ち向かう勇気が湧き出るという結論に達しました。
 だから、勉強が出来ない(と思われている)人間は、頭脳が悪いのではなく、勉強する意義が分かっていないのです。


その続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/