M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第409号(2013.2.18〜2013.2.24) この世は全て催眠だ(151)〜強要・強制は能力低下の元凶!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(151
〜強要・強制は能力低下の元凶!

 YOU能力……相手の態度・行動を尊重して話し合いや人間関係に挑む自分自身の性質のこと!
 人間は、人生に於ける自分の体験こそ全てであり、どんなに勉強を疎かにしてきた人間も、自分の判断や考えが正しいと思う心をもっています。それは、上下関係やヒエラルキーに関係なく、自分自身の中で信じ切っています。これが、その人固有の“観念”で、「自分が正しい」と思い込んでいるのです。
 従って、権利や権力を有した人(例えば上司)が、それを用いて強要・強制してきても、行為・行動(身体)はそれに従っても、決して心が同じように従っているわけではありません。俗に、「仏作って魂入れず」と言われる状態です。
 昔の軍隊の映画などで、「気合いが入っとらん!」とビンタを浴びせる場面がありますが、“気”とは心の方向性のことですから、いくら動作や行為を強要しても、心が従っていなければ、ミスや事故、作業効率や他者との連携が低下するのは当たり前です。そこに、尚且つ、暴力的行為(威嚇による強制)で、喝を入れれば、ますます心は離れて行き、行動は緩慢になります。
 人間は、心と体が一体化して、はじめてその能力がフルに発揮できるように創られているのです。成績の悪い子に母親が「勉強しなさい。本当にあなたは頭の悪い子ね!」などとヒステリックに叫んでいる所をよく見かけますが、当の母親すら“頭の悪い子に勉強を強要する矛盾”に気付いていない“頭の悪い母親”です。私が研究した結果、
 「成績の悪い子は、頭が悪いのではなく、その勉強をする意味(何故やるのか)を見いだしていないため、心と体が一致しないのです」
 「やらなければ叱られる」という強迫観念は、その真意を見てみると「叱られるからやる」という、全く目的から外れた意識を誘発しているのです。

=先ずは、己の受け入れ体質から=
 俗に超能力というのは、スプーン曲げや透視、予言などを想像しますが、私は「火事場の馬鹿力」を発揮することだと考えています。この思いも寄らない能力が発揮されるのは、その物事をなす意味を完全に理解し、気が一点に集中して心と体の一体化(心身一如)が起こり、全身全霊の力量が100%発揮されたときに起こります。
 最近“アスペルガー”(社会性・興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害)と呼ばれる人達の話題が出ます。彼らは、凄い能力を持ちながらもそれを実社会に活用できない人が多く、周囲からは「変人扱い」されているケースもよく見られます。私の知人にJR在来東海道線の各駅を全て暗記している人がいます。その記憶力には頭が下がりますが、それをどのように実社会に用いれば良いのか分かりません。その素晴らしい記憶力を「他に用いれば良い」と思うでしょうが、彼は“駅”意外に興味を示さないのです。
 そして、世間は「ダメな子、変人」のレッテルを貼り、社会から遠ざけてしまいました。しかし、私は元来「自分に出来ないことが出来る人を尊敬する」性質をもっていますので、その子が得意げに、まるでお経を読むようにJR在来線の駅名を朗詠しているのを楽しんで聞きます。その上、私は古典落語が好きなので、同じストーリーを何度聞いても、その微妙な変化や特徴を楽しみます。
 この辺りはクラシック音楽に精通してきた結果だと思います。クラシック音楽は、楽譜通り忠実に再現しながらも、その音符の裏にある微妙なニュアンスを表現するところに至高の芸術といわれる所以(ゆえん)があります。また、私はフルートが受け持ちですが、となりのオーボーや後ろのクラリネット・バスーンといった私と違う楽器を演奏するメンバー(自分と異質)を受け入れる体質が培われております。これは、当たり前のように感じられるでしょうが、人間のルサンチマン性からいえば、異なることをやる他者(技術の上下もふくめて)を“敵”と見なす傾向があります。しかし、私には全くこれがありません。自分より素晴らしい実力を持った奏者は、感動と尊敬をもって迎え入れますし、卑近な例で言えば、見事な手口の「振り込め詐欺」を考案した人間や、誰とでも情交をもつ売春婦やホストなどまで「スゴイ!」と思ってしまいます。(やはり変人?!)
 しかし、これが絶妙な?バランスで、私の中で「受け入れ体制」を作っています。この受け入れ体質が自然な「YOU能力」となって、駅男くんを「スゴイ!」と認知したのでしょう。それ以来、彼は私に対してとても好意的に何事も協力してくれるようになり、顔を合わせると、礼儀正しく私だけには挨拶してくれます。但し、他の人間が挨拶してもそっぽを向くのは今も変わりませんが……。
 この様にアスペルガー症候群と言われる人達も、自分が認知されたと感じた人間には、人間の潜在意識に潜む“礼節”をもって接してきます。このことから、好きなことしかやらなくなった(アスペルガー)のは、周りの認識不足が嵩じて受け入れ体制の無さに対する無意識の抵抗のように考えるようになりました。
 まだまだ、その症例は少ないのですが、「物事に偏向する人間(アスペルガー)も、そのエッセンス(駅男なら記憶力)を認めてゆけばその本領(記憶力の秀逸性)に到達し、それを、自分を認めてくれる人間のために用いるようになる」と仮説を立てるまでに至りました。ただし、一人の人間の心の扉を開くための努力は、それこそ“修行”と言わざるを得ないほど至難の業ですが……。


その解説は、来週のお楽しみ……('-^*)/