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今週の喝 第238号(2009.11.9〜2009.11.15) 氣の力を知ろう(45)〜“仁”に目覚め、苦の払拭を果たせ!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

氣の力を知ろう(45
〜“仁”に目覚め、苦の払拭を果たせ!〜

 

 光陰矢のごとし……人間はどの世代に於いても、あっと言う間に時が過ぎ去ってしまったと感じるものです。しかし、自らの半生を丁寧に振り返ってい見て、どれほどの人と出会い、どれだけのお金を周りの人達から掛けて貰ったのかを知った時、人生の重さを噛みしめることが出来ます。
 浄土真宗の僧・吉本伊信(いしん)先生によって始められた「内観」は、自分の生き様に氣付き、如何にすることが人生の本筋かを、過去を振り返ることによって目覚めさせる素晴らしい手法です。
 人は皆、心の奥底……潜在意識の深いところに「仁」と呼ばれる「仏性(ぶつしよう)」があります。私の考える仏性とは、人が人として誰からも尊敬と憧憬を集める心構えと行動力の源(みなもと)です。この仏性を携えて我々はこの世に生を受けたのですが、その時、執着のこれまた源である肉体を同時に授かりました。執着は欲望を生み出す根本要因で、お釈迦様が説かれた「苦」の原理も全てが肉体無くしては生じないものです。俗に四苦八苦と呼ばれる執着は、肉体に付随する「生老病死」に始まり、心が物質や身体を意識して生じる「愛別離苦(あいべつりく)」「求不得苦(ぐふとつく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「五蘊盛苦(ごうんじようく)」の四つが加わります。
 後の四つは、愛した者との分かれる苦しみ、欲しい物が手に入らない苦しみ、怨念や憎悪が渦巻く醜い心、身体壮健になったために欲望が益々湧き上がり、そして、止め処ない欲望の渦に飲み込まれてゆく……という苦です。本当に人間とはやっかいな生き物です。そしてこれらは、肉体がなければ、別れも欲求も怨憎も執着も生まれません。四苦八苦を数字に置き換えこれを掛け算すると、4×9=36、8×9=72。合わせて36+72=108と人間の持つと言われる煩悩の数と同じになります。

=人生は錬磨!何人(なんぴと)も磨けば光るのだ=
 「齢(よわい)六十にして、法に耳順(したが)い」孔子が述べたのは、自分の人生において、肉体から生じる執着が自分自身を苦しめていたことに氣付けと言っているのだと私は解釈します。私ももうすぐ60歳の声を聞く年となり、この孔子の言葉に感じることが多くあります。その一つが、身体の弱りです。「如何に氣を入れようとも、以前のように自由自在に身体が動かない。物事に集中し真剣にはなれるけれども、それ以外のことに意識をシフトすることが難しくなる。つまり、没頭できても切り替えが上手く行かず、物忘れしたのと同じ状態になる」。また、眼耳鼻舌身の五感が鈍くなり、身体からはノネナール(老人臭)が出て、そのうえ肌も枯れ木のようにツヤが無くなるなど、いわゆる老化現象が顕著に見られるようになります。そして、次に待ち構えているのは「死」です。
 しかし、よくよく考えて見ると、自分をずっと苦しめてきたものは、突き詰めると「肉体」の存在にあり、その肉体が衰えてゆくことは、考え方を変えると、苦を作り出すものからの脱却を意味していると私は思うのです。
 ベートーベンは晩年には完全に耳が聞こえなくなりましたが、そんな中で第九交響曲「歓喜の合唱」を作曲しました。彼はその波瀾万丈の人生で、音楽そのものを完全に極め、大自然が持つ響きを見事に操る能力を天より授かりました。まさに耳を超えた耳の存在……精神が響きを捉え、感動の音楽を作り出していったのです。つまり、ベートーベンは音楽家として最も大切な耳を失っても、何の障害にもならないと言うところまで自分を高めたのです。
 奈良の唐招提寺(とうしようだいじ)を開いた中国の僧・鑑真(がんじん)和上も、求めに応じて日本に正しい仏教を伝えるべく渡航を企てますが、何度も失敗し、最後には失明してしまいます。しかし、立派にその使命を果たし、大往生を遂げてゆきました。
 世の聖人と言われる人達は、みなこのように、執着の源である肉体を超えた領域にまで己の感覚を高めたのです。逆説的に考えると、肉体の衰えが自分にとって不自由に感じるならば、それまでの人生を一所懸命一つのことに燃やしてこなかったと言えるのではないでしょうか。もちろん、世の人間の大半は凡人ですので、このような聖者と比べることはおこがましいことですが、我々は彼らから多くを学び、尊敬と憧憬をもって近づこうとする努力は必要です。
 我々は、我々の感覚から見た偏見でしかものを見ることが出来ません。我々は、「耳が聞こえないのに第九を作った」とか「失明してまでも日本に仏教を伝えに来た」などとその不虞を乗り越えたことに価値を求めがちですが、彼らの心の耳、心の眼はしっかりと開いていたのです。つまり、身体の器官が失調しても、何ら不都合でないところまで、自分の感性を磨き上げたのです。それが「法に耳順う」本当の意味であるように感じる今日この頃です。


この続きは、また来週……('-^*)/