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今週の喝 第212号(2009.5.11〜2009.5.17) 〜氣の力を知ろう(19)気の使い方は二つ、”気”と”氣”の違いは?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

氣の力を知ろう(19
〜気の使い方は二つ、”気”と”氣”の違いは?〜

 “気”を見た人は、未だかつて誰もいません。しかし、誰もがみな感じる事でその存在は明らかです。これまでお話ししてきた中で、人がその成長と共に目標と目的を持ったとき、自分の進むべき方向性を見いだします。それに向かって命が志向性を持ち、命のエネルギーは“氣”となって作用します。これは、空気が温度差によって流れが生じ、風となるのと同じです。
 従って、命の証明とは氣を生じさせること……命に目的と目標(=道)を与え志向性を持たせ、その氣の方向へ自らの行動を起こすことなのです。つまり、短絡的に言えば、命とは行為行動であるといって良いのです。

 さて、その「気」という漢字には“気”“氣”があります。漢字は象形文字なので全てに意味があります。この「气」という部首は「天体」を表しています。我々の氣は常に天地と交流することによってそのエネルギーを活性させているのです。そして、このシリーズでも私は“気”とは書かずに、“氣”としていることが多いのはそのなかの「米」という文字に意味があるからです。
 「米」の部分は、中心から八方にエネルギーを拡散している様を示したものです。つまり、“氣”とは天体のように八方に広がっていくもの、出ていくものだからです。
 もう一方の“気”は、氣が八方に放出されれば枯渇するので、ここで少なくなっては困ることから、自分の中に氣を蓄えておくために出口を締めておく意味から「〆(しめ)」を使ったのです。

=気遣いと気配り=
 我々人間は、自分の所業・行動が常に正しいとは限りません。いや、子供の時より自分の行動が間違っていたことに気付き、それを修正して成長してゆくのです。私は、子供時代にはよく親や先生から叱られました。叱られるとは、いったん自分の行為行動を振り返り、それが正しかったかどうかを反省するように求められることです。その時は、自分の気をしっかりと締めて(私はこれをケジメ=気締めと書くことにしています)過去の自分と未来の自分の隔絶を計ります。つまり叱られた時点で、過去のケジメ(気締め)を付けたのです。
 このように、過去の反省材料をしっかりと未来への教訓に変えるために私は気を〆(しめ)てかかります。そして、それがしっかりと自分自身の腑に落ちて進むべき道の修正が完了した時、こんどは氣迫でもって邁進して行きます。この時は氣を出すのです。気を溜め、自己の道をしっかりと振り返り、正しい道を模索することに気を遣い、それを修正した後は、自分自身の行動でその正しさを体現するために氣を配というのが正しい氣の用い方だと私は思います。
 “気”を、人に対して良く思われようとしたり、下心を隠すために使う「気遣い」は間違った気の用い方です。人に対しては、自己修正がなされた後の「氣配り」を心がけなければなりません。そして、また相手もその心が素直であれば、正しく放出された氣を感じることによって「氣付き」が起こり、互いに影響されていくのです。
 素直さの上にある気遣いと氣配り……この三要素で人は成長してゆきます。そして、人は成長と共に全ての本質を感じる心を持つようになります。万物に氣が宿っており、それを感じる鋭敏な感覚……これが霊性を感じる心(=霊性心)です。この霊性心を芽生えさせた者は、この大宇宙が普遍と変化(不易と流行)の絡み合いによって育まれていることに氣付きます。
 我々人間は、生まれたてのときは生命欲求によって唯々無邪気にすごしますが、やがて物心が付き色々な事象の成り立ちに氣付いてきます。これが「理性心」の萌芽です。人の成長はこの理性心が生まれた時点で、欲望と感情との葛藤が始まり、ほとんどの人間は欲望や感情が支配し、理性心を他人には向けても(傍目八目)自分自身はその限りに在らずという理不尽性を有します。人の眼が大方に於いて正しいのはこの傍目八目性が在るからです。
 このとき、その葛藤の中から理性心を勝利させ、自分の言葉と行動を一致させた者にだけ芽生えてくる心が霊性心です。霊性心とは、我々が成長の過程で良い環境や素晴らしい人間関係に恵まれたとき、適切な叱咤激励によって己の行動を修正し、そこにきっちりとした理性で人生を歩んでいる人間の氣から生まれるもう一段ランクが上の心です。
 たばこが身体に悪いと分かっていてもつい吸ってしまうのは、この霊性心の萌芽がないか未熟なために起こる現象なのです。


この続きは、また来週……('-^*)/