M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第211号(2009.5.4〜2009.5.10) 〜氣の力を知ろう(18)”場”の主導権は、ユーモアのセンスから生まれる!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

氣の力を知ろう(18
〜正直な心と素直な心〜

 ♪裏の畑でポチが鳴く、正直じいさん掘ったれば、大判小判がザクザクザクザク……
これは、1901年(明治34年)に作られた石原和三郎作詞、田村虎蔵作曲の「花咲爺」です。
 意地悪じいさんと正直じいさんでは、当然正直じいさんの方が世間より多い恩恵を受け、「正直」であることの大切さを、これから育つ幼い子供に教訓として親から子へ、子から孫へと語り継いでいった、日本の微笑ましい童話です。
 ところがこの「正直」という言葉にはその前に○○と付くとおかしな意味になってしまいます。正直なことは良いことなのですが、それで周りが色々と迷惑を被ったり、相手を傷つけたりすることがあります。
 「正直」とは事実をありのままに伝えることと解釈し、自分の心に嘘をつかず、わだかまりを残さないことと思い、その通りに言葉使いや行動をしている人を見かけますが、このような人の中には何か不愉快さを感じさせる人がいます。
 ほとんどの人間は、成長過程で誰に学ぶことなく“気配り”を体得しますので、言って良いことと言うとダメなことの判断を無意識にします。例えば、癌に罹り余命幾ばくもない人を見舞いに行って、「お医者さんに聞いたけど、癌だってね。あと2ヶ月持ったらよい方と聞いたけど、何か言い残すことある」というような言葉を投げかける人はいないでしょう。
 また、戦友が敵弾に当たったときに「戦友よ、傷は深いぞ心配せい!」という人間もいませんね。「戦友よ、傷は浅いぞ安心せい!」とその場に居合わせたら咄嗟に“嘘”をついてでも、その人の生きる気力を活性することに精力を使うはずです。

=素直は気配りの証し=
 お釈迦様の説いた“嘘も方便”という言葉は、「便宜的な手立てでその目的を成し遂げるためには、事実と違う言動も必要である」とTPOを示しているのです。この時に用いる“嘘”には“悪意”がありません。つまり、相手の事を考えての“嘘”であるのです。「○○○○のように言うと、相手が傷つくだろうな」と気配りが入ると、相手の心を踏まえた上での正直性=“素直な心”が芽生えてきます。私の解釈は、正直とは自分の心に対して、素直は相手の心に対しての自分の姿勢なのです。従って、素直の上に○○と付くことはありません。
 電車に乗っていると、時々小学生の遠足の集団に出くわすことがありますが、そのワイワイガヤガヤの会話に耳を傾けますと、時々ドキッとするような会話が聞こえてきます。相手のあだ名を呼び、
「おい細目!お前そんな細い目で観光できんのか」
と、その身体的特徴や欠陥で呼んだり、
「向こうからブスが来よったで」
などと心の解放から、目に映ったとおりのことを大きな声で喋っています。その声につられて目をやると、その通りの情景に思わず苦笑してしまうことがありますが、この残酷さを正直と言うにはとても違和感があります。
 このような子供も、成長するにつれて、教育や自分がその対象にされるなどの経験から、言って良いことと悪いことの峻別性を修得して行くのですが、中には、このことに気付かないまま大人になり、周りに不快感をまき散らす人間もいます。また、過敏になりすぎて、巧言令色で上辺だけの処理をしてしまい、己の利得のためのお世辞やゴマすりに一生を費やする悲惨な人間もいます。

 素直な人間とは、「○○と言われると、私は嫌だ。だから、別の言葉で表現しよう」と言葉を選びます。この辺りが、気配りのセンスです。つまり、黄金律(して欲しいことをしてあげる。されて嫌なことはしない)という見地を身につけて、人間関係を円滑にしているのです。
 言い換えれば、素直な人間は、自分に主体性を持たせて対象者を中心に据えますが、正直な人間は自分が中心であり、周りのことに気を配ることはありません。つまり、正直性が嫌な感じを持つときは、その人が“自己中心”=ジコチュウ人間である証しなのです。
 主体とは、投げかける側のことです。ここに気配りがあると素直な心が芽生え、あなたはバラ色の人生を演出することができるのです。


この続きは、また来週……('-^*)/