M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第208号(2009.4.13〜2009.4.19) 〜氣の力を知ろう(15)人間の素養は、ユーモアのセンスから生まれる!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

氣の力を知ろう(15)
〜人間の素養は、ユーモアのセンスから生まれる!〜

 私は、長年フルート片手にコンサート、ディナーショーのステージを踏んできました。もちろん皆さまがいつも楽しまれるクラシック演奏会のように、音楽のみを演奏することもありますが、梅谷忠洋トークコンサートとなると、一風変わった雰囲気を味わっていただきます。
 私のコンサート・セオリーは、音楽はシリアスに、そしておしゃべりはユーモアたっぷりに心和んで頂くことによって、「クラシックは難しい」という固定観念を払拭し、人類の最大の宝物であるクラシック音楽をより身近に、より親しんでいただくことです。
 昔からクラシック音楽が敬遠される理由の一つに、演奏者が仏頂面で真面目くさった演奏を延々と行うところに集客が伸びない原因があると感じていました。もちろん、こう感じるのは私だけではありません。「題名のない音楽会」とか「オーケストラがやってきた」というTV番組で、色々と音楽の楽しさを伝える努力をしてきたことでも分かりますね。しかし、今ひとつ、中途半端な感じがしてなりません。そこに何かが欠けていると考える内に、それは企画でも演奏内容でもなく、その番組の出演者自体のユーモアのセンスに原因があるように思いました。
 それは、古典落語を演ずる落語家を例に取ると分かり易いです。同じ演目も、前座と真打ちでは笑いが違うのは、話術とか間など技術的なものも大きく影響します。しかし、「栴檀は双葉より芳し」のことわざ通り、前座でも「将来が楽しみだ」と期待させる人もいます。そこには、物事に立ち向かうその人間の「素養」に大きな要因が秘められていたのです。

=人生のパーパスとプロセスを間違うな!=
 人に受けようとしても、そんなに上手く相手は乗ってくれない……このようなことで音楽家も落語家も初めの内は苦しむのですが、真剣にそれに取り組んでいるとある時、ハッと気付く時があります。それは「コツ」とか「技法」といったテクニックではなくて、自分の「姿勢」(その事にかかわってゆく態度)に鍵があるということです。
 例えば吹奏楽コンクールで良い成績を挙げるために一所懸命楽器を練習しますが、このような姿勢は、コンクールが終われば練習も終わるという弊害も引き起こします。つまり、コンクールに出ることが目的(パーパス)であった為、目的が達成されれば全てが終了してしまうのです。
 逆に、音楽そのものが好きで、楽器をその表現方法と考え、その為に多くの人に聴いてもらいたいためにコンクールに出場しようという人は、コンクールは自分の生き様(姿勢)のプロセス(途中経過)であるため、一つが終わっても、また次に挑みます。
 「素養」とは、このパーパスとプロセスを間違えないことなのです。この素養の上に、何事も推移してゆくことを身体で理解できた時、不思議な“氣”がその人から発せられます。苦しい努力(訓練)も乗り越えることが出来るのは、そこに歓び(=快)が存在するからです。苦しいことを乗り越えた人間は、不思議なことにユーモアを自分の性質に持つようになります。ユーモアとは愉快という人間最上の感性です。この「ユーモアを自分のものとするために人間は最大の努力をする」から、ユーモアが語源になってヒューマン(人間)という言葉が出来たのです。そして、それは常に「笑い」を周囲に提供し、場の雰囲気を和ませます。これがユーモアのセンスなのです。
 しかし、「人を笑わせる」ことはとてもきわどい作業で、これも又人生観の中の達成感から、自分の苦労を笑って話せる人間が生まれてくるのです。昨今、周囲におもねるために笑いを取ろうなどと考える人が増えてきて、親父ギャグやダジャレが溢れていますが、これもまた、パーパスとプロセスが逆になると笑いをとるどころか、人を傷つけてしまうこともしばしばあります。
 自分の生き様や過去の苦しかった経験をユーモアを交え悲壮感無く語れる人は、それ相応の命の志向性(精神)を育んだ人です。命に志向性を持たせると“氣”が湧き出てきます。その氣が周囲に快感を与えることこそ、本当のユーモアです。このことに気付いた私は、苦しいフルートの訓練や難しい人間関係などをユーモアたっぷりに、身近な事例を引用しながらコンサートを進めてゆく事に努力しています。
 私のコンサートは泣き笑い……音楽では泣いて(感動して)、お話しでは笑う(心和む)ように、お客様の心が揺れ動いて下さることを念じているのです。


この続きは、また来週……('-^*)/