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今週の喝 第188号(2008.11.24〜2008.11.30) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(10)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(9)

 さて、足利尊氏のクーデターについては、後醍醐天皇は、源氏の本流である足利家と新田家の私闘と言うことで、当初片付けようとしましたが、世の中の人間関係など何も考えない後醍醐の感情的采配によって、天下を二分する戦いにまで発展しました。
 そして、鎌倉で挙兵した尊氏は、破竹の勢いで、東海道を京へ攻め上ってきます。この時、楠木正成は、冷徹にこの状況を見ています。どこから見ても器量の違いは明白で、後醍醐は義貞を頼って尊氏を討とうとしていますが、それはとても危険だと感じました。それに正成は尊氏の人間性のどこかに親しみの情を覚えるし、尊氏もまた正成に好意を抱いていたのです。
 正成の盟友・護良(もりなが)親王を殺したのは足利氏であったけれども、そうさせたのは阿野廉子(あのれんし)であり、その責任は彼女を寵愛し、権力を与えてしまった後醍醐にあります。そんな思いを胸に秘めながら、複雑な思いで、正成は尊氏を迎え撃つために出陣する新田義貞を見送るのでありました。(正成は、京都警護のため残ります)
 尊氏挙兵と同時に、後醍醐政権に不満を抱く地方の武士達が挙兵し、各地で小競り合いが起こります。
 そして、いよいよ義貞軍は静岡県の安部川にさしかかり、尊氏の弟・直善と手越(てごし)河原で激突します。両軍合わせて十万の大合戦です。当初、義貞軍は大勝利を収め、直善軍を箱根まで押し返しますが、陣中の寝返りなど裏切りによって義貞全軍は潰走し、大崩落します。
 日本での大会戦は、そのほとんどが裏切りによって勝敗が決するのが特徴でんな。後の関ヶ原もやなあ。

 

=極楽とんぼの新田義貞=
 この勢いに乗って、足利軍は京を目指します。名古屋の熱田神宮で先勝祈願したとの報が早馬で京に知らされると、宮中は騒然となります。そんな折、京の粋人が御所の門の扉に落手をひとつ書きます。
 「賢王の横言になる世の中は、上を下へぞかえしたりける」
後醍醐は賢王だそうだが、その勝手気ままのために上を下への大騒動になった。こんな帝であっても、正成は命令に背くわけにはいかない……。本当に苦しい胸中であったことでしょう。
 こうしている間にも、尊氏は近江(滋賀県)に入ります。後醍醐は京都を絶対死守したい。しかし、守備軍の士気はふるいません。彼の出来ることは“おふれ”を出すことだけです。「今度の合戦で忠があったものは、近い内に恩賞を行う」と街角に高札を立てると、早速その末尾に落書きが為されます。
 「かくばかりたらせたまう綸言(りんげん)の汗の如くになどなかるらん」
天皇の言葉は一度出た汗のように取り消せないはずだが、よくもまあ、こう嘘が多いのだろう。人心はいよいよ後醍醐から離れて行きます。正成は、この様子を冷ややかに見て、背筋に恐ろしい顛末を予測したことでしょう。
 ここで、足利軍は、弟・直義(なおよし)に瀬田(現在の大津)の攻略を任せ、自分は、宇治から京へ攻め上るため二手に分かれて京をうかがいます。瀬田の本隊を迎え撃ったのは、新田義貞、そして宇治川畔に尊氏を迎え撃つのが正成です。ここに元盟友同士の大決戦が行われます。これによって、平等院が延焼します。幸い十円玉の図柄になっている鳳凰堂だけは助かるのですが、公家の象徴である、この寺が燃えることは、後醍醐の没落を暗示するものでした。
 この戦は、後醍醐方の勝機が何度もあったにもかかわらず、正成と義貞の連携の悪さから、とうとう尊氏の入京を許してしまい、鴨川を挟んで死闘が繰り返され、川が血で染まったと言います。ここでもまた正成が奮戦し、尊氏は総崩れとなり西国に向かって敗走を始めました。
 そして、我が町・西宮には甲山(かぶとやま)というまるで兜の形をした山があり、大阪平野のどこからでも見ることが出来ますが、この山の麓で、足利軍の左側面から正成が夜討ちを掛けたのを機に、足利軍は惨憺たる大敗走となり、尊氏は九州へ落ちることになります。
 この時、義貞軍が時を移さず追撃していれば、尊氏はきっと腹を切っていたことでしょうが、ここでも義貞の機転の無さに、その機を逃してしまいます。そして、尊氏が、どんどん西国に向かって落ち延びる時ですら、その道すがら土地の豪族達は尊氏に恭順の意を示し、軍勢はふくらんで行きます。戦に負けたのに、世論を味方に付けた最高の事例がここに表れます。
 一方の新田義貞は、得々(とくとく)と一万人以上の足利軍捕虜を引き連れて花の春の京に凱旋し、有頂天となります。こんな姿を見た京の粋人は、
 「二筋の中の白みを塗り隠し、新田新田(ニタニタ)しげな笠験(かさじるし)かな」
と落首を読みます。新田勢は、足利の笠印の中を塗りつぶして一本筋の新田の印に変えて自慢げに京の街を練り歩いたのです。

(教訓)
 気ィゆるした方が、最後には負けるんでんなあ。
 庶民は傍目八目。全部見通してまんねん。
 しゃさかい、民衆の心を馬鹿にしたらあきまへんで…!


この続きは、また来週……('-^*)/