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今週の喝 第187号(2008.11.17〜2008.11.23) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(9)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(9)

 さて、ごたごた続きの建武の新政ですが、全て後醍醐天皇の世間知らず、人情知らずが原因です。
 武士の手を借りて政権奪取をしながら、武士の頭を抑え、公家に手厚い保護をして政治をやろうというのですから、上手く行くわけがありません。
 そしてここに来て、鎌倉幕府を実際に倒したのは誰かという問題が起きてきて、関東(鎌倉)では、大変な騒動になりました。
 ことの顛末は、
実際に兵を挙げて倒幕したのは、新田義貞で、本人も固く信じております。しかし、足利尊氏は自分が発した教書によって、関東武士が動員され、尊氏の長男千寿王を名目の大将に、戦ったのだから自分の功績であると言うのです。
 この政治的駆け引きは、尊氏の勝ちで、豪族達は千寿王のもとに集まり、新田義貞はその圧力の前に涙をのんで、鎌倉を引き渡し烈しい屈辱感を胸に抱きながら、一族全てを連れて京都へ上りました。ここに、足利尊氏の圧倒的な支配力が武家の間に定着したのです。
   何事も戦略(目的意識の明快化)が肝心でんなあ
 そして、失意の内に上洛した新田義貞を、後醍醐天皇は越後の守として遇し、上野(こうずけ)と播磨の国司代理にも任命し、温かくむかえました。もちろんその心の内は、足利尊氏に対する牽制策の一つでした。

=名戦略家・足利尊氏=
 さて、こんな状況下でスタートした建武の新政は、何事も公家達の稟議で裁決まではこぎ着けるのですが、阿野廉子をはじめとする後宮の女や後醍醐のお気に入りの僧侶がチャチャを入れる(内奏する)と、明くる日には、決定事項がまさしく朝令暮改(暮令朝改)、一夜にしてひっくり返ることがしょっちゅう起きました。
 「こら、どういうこっちゃ」
首をかしげながら、正成は河内弁でつぶやいたことでしょう。そして、新政権に対する幻滅が頭をもたげるのをあわてて打ち消す毎日でした。彼は、今回の功績で、河内の土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たしています。だから、いつも天皇を肯定的に理解し、良いところをしっかりと補足していこうという心が常にありました。
 後醍醐天皇は、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうという理念の下に新政を始めます。その理想の政治を行うためには強権が必要と考え、独裁を推し進めます。
 まず、鎌倉時代に強くなり過ぎた武家の勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く、武家に低くしました。また、早急に財政基盤を強固にする必要も感じたので、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課しました。朝廷の力を回復するために、考えたこの改善案を性急に推し進めたため、建武の新政は、諸国の武士の反発を買い、1335年11月とうとう足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵します。そして、征夷大将軍の称号を勝手に名乗ったのです。
 尊氏は、鷹揚(おうよう)な人柄で気前が良い。どんどん部下に振る舞い、事実上足利幕府が出来てしまいます。そして、恩賞だけではなく、着々と政治的な手を打ちました。先ず、北条氏について戦った者の罪を許したため、先非を悔い、尊氏に忠誠を致そうと思わない者はいませんでした。その上、朝廷に没収された土地は旧主に戻すと約束までしたものですから、武士が尊氏になびくのも無理はありません。

 楠木正成には、以前から時勢が見えていました。いつか必ず後醍醐と尊氏の衝突が起きるだろうと……。そして、尊氏は関東を固めた上で京都へ迫るであろう。新政への悪評が高く、人心はすでに離れているから、後醍醐天皇にとって、勝ち目はない。こんなことを思っている時、
 「新田義貞を誅罰せらるべく、一族相集まりて馳せ参ずるべし」
という檄文が鎌倉から諸国に発せられます。尊氏の揺動作戦のうまさがここにあります。つまり、新田義貞を温かく迎えた後醍醐天皇に挑戦状を叩き付け、公然と京都の朝廷を敵とすることは憚(はば)かったのです。そして、この檄文も署名も尊氏の弟・義直の名前で出しました。(マイルドな形をとりながら、首根っこに短刀を突きつけたと思って下さい)
 護良親王がいない今、尊氏は義貞を倒せば、名実共に足利幕府が成立します。これはどこから見ても、軍略の天才・足利尊氏のクーデターでありました。

(教訓)
 「戦争とは政治の最終的解決手段である」……
 嫌な言葉やけど、全ての駆け引きの裏には、
 そのバックアップ(戦力)が必要でんねんなあ


この続きは、また来週……('-^*)/