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今週の喝 第189号(2008.12.1〜2008.12.7) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(11)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(11)

 さて、九州に落ち延びた足利尊氏は、その人柄と筋を通す明快な政治指針で、その敗走の道すがら多くの土豪の賛同者が現れ、小競り合いはあるものの、だんだん付き従うものが増えてきたから、世の中は分かりません。
 そして、足利を討てという綸旨(りんし)を貰った者までが、数多く寝返り一大勢力となりました。
 その情勢を見た楠木正成は、
 「わいらの仲間が、ぎょうさん尊氏を慕(しと)とる。今度戦(いくさ)があったら絶対に負けやなあ」
と心の底で現実を認識します。そして、新田義貞が地方の反乱を抑えるために京を離れたのを機に、後醍醐天皇に
 「どうか義貞を誅罰(ちゆうばつ)してください。そして尊氏と和睦(わぼく)し、公家と武家が手を握ってください」
と上奏します。この辺り、民衆の心なくして統治は出来ないと言うことを、土豪出身であるが故に肌身で感じてのことだったのでしょう。
 しかし、この申し入れを公卿達は驚くよりも、正成の気がふれたのではないかと疑いました。
 「こちらが勝ったのに、なんで逃げた相手に和睦を呼びかけなあきまへんのや。君が臣に手を結ぼうと言い出すとは、何ちゅうこっちゃ」
と、正成を嘲(あざけ)り、後醍醐もまったく取り合おうとはしません。

 

=口惜しさに唇噛んで=
 1336年4月28日、九州で多くの武士や民衆の支持を得た足利尊氏は、大軍を率いて京都へ向けて進軍を開始しました。山口県長府から大船団を組織して瀬戸内海を進みます。そして5月1日には安芸の宮島の厳島(いつくしま)神社にて戦勝を祈願し、ここで海と陸に分かれて前進します。
 この時、新田義貞は兵庫県赤穂辺りの反乱鎮圧に手こずり、全く尊氏本隊に気が回らない様子です。小さな山城ひとつを、義貞が攻めても攻めても落ちないのを諸国の武士達が見て、足利方に付きます。
 その昔、赤坂城・千早城の戦いで正成が持ちこたえれば持ちこたえるほど、鎌倉幕府から袂を分かったのとまるで同じです。

 後醍醐天皇はこの情勢を見て、正成に「湊川(みなとがわ)(神戸)で、新田軍と合流し、尊氏を討伐せよ」と命じますが、今や、尊氏軍は大軍勢となり陸と海から破竹の勢いで京を目指して進撃してきます。正成は、こんな大軍と正面からぶつかっても全く勝ち目はないと判断し、正成はある作戦を立案します。
 「私は河内に帰って兵を集め、淀の河口を塞ぎ、敵の水軍を足止めしまっさかいに、帝(みかど)は比叡山にお移り頂き、京の都に尊氏軍を誘い込みまひょ。その後に、北から新田軍、南から私が敵を挟み撃ちにしたら、勝ち戦は間違いありまへん」
 すると、この案は公家達の
 「帝が都から離れたら朝廷の権威が落ちまする」
の一言で却下され、失意の中正成は、湊川に向かって出陣します。
 「わいに、早よ討ち死にせいと言うことやな」
と口に出したと「太平記」は伝えています。これ以上言うと、卑怯者にされる。尊氏との和睦策を持ち出した時から、公家達はそのようにささやいていました。
 この時、楠木正成は死を覚悟しました。それも後醍醐への、と言うよりも後醍醐に掛けた自分の心に絶望しながら、ただ人は意地のために死なねばならない時があることを自分に言って聞かせました。そして、それは忠義のための死でもありませんでした。それでも、後醍醐には土豪の悪党であった自分を諸侯として抜擢してくれた義理がありました。そして、己の名誉が、大きく正成の心に腰を下ろしていました。
 正成は、兵を兵庫県尼崎に参集するために河内や和泉に触れて廻りました。時間がありません。敵は凄い早さて東進してきます。しかし彼に従う兵は少なく、その数わずか五百。敵は三万五千。
 京都を出たのは、陰暦5月23日(五月雨(さみだれ))梅雨です。やがて、摂津の桜井の里(現在の京都と大阪の中間)にさしかかります。左手の淀川河原を高浜と呼び、川を渡ると楠葉(くずは)です。そこから、東高野街道が南河内へ延びています。自分の本拠地との分かれ道に、正成は馬を止めました。

(教訓)
 命惜しむな、名をこそ惜しめ。
 遠からん者は音にも聞け。近くば寄って目にも見よ
    男の命は名誉でんなあ……!!


この続きは、また来週……('-^*)/