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今週の喝 第185号(2008.11.3〜2008.11.9) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(7)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(7)

 千早城の戦いを長引かせることは、鎌倉幕府の弱体化を世に知らせる大きな役目があり、尚かつそれと呼応して、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王が幕府に、不満を持つ悪党や守護大名に令旨(天皇からの命令書)を書くという、敵の心理を攪乱する揺動作戦が、敵の結束をゆるめるという、現代の情報戦が、今から七百年も前に行われたと言うことは驚きます。
 正成が勇躍大阪平野をゲリラ戦でかけずり回り、尚かつ、千早城に幕府軍を引きつけている間に、後醍醐天皇は首尾良く流刑地隠岐を脱出し、京を目指します。そして、幕府の統率力の弱体化を見た諸侯達は、各地で反幕府ののろしを上げ、反乱を起こし、幕府の弱体化は加速の一途を辿ります。その間も、後醍醐と正成はしっかりと連絡を取り合い、お互いの動向はしっかりと把握していました。このようにコミュニケーションをしっかりとり、互いの目標と目的をわかり合っていたからこそ、今何をどうすべきかを掌握できたのです。そして、鎌倉幕府は崩壊します。
 元弘三年(1333年)6月2日、後醍醐は、我が町西宮にまで帰ってきます。そこへ、正成が手兵を率いて駆けつけました。天皇は、輿(こし)のすだれを高く巻き上げ、正成を涙ながらに迎えたと言います。1年9ヶ月ぶりの再会でした。
 「京まで戦陣を承れ」と後醍醐は命じ、二人の情は最高潮に達します。
 6月4日、後醍醐天皇は京都の東寺に到着し、鎌倉幕府に反旗をひるがえし、六波羅を滅ぼした足利高氏はじめ、在郷の武士、公卿たちが我先にと挨拶に参集してきました。
 そして翌日、いよいよ威儀をととのえて二条富小路の内裏(御所)に帰り着き<建武の新政>がスタートします。

=新政の幻滅=
 6月8日、後醍醐天皇は長年の念願だった天皇親政を宣します。公家が天皇親政を補佐するシステムの律令国家を目指したため、多くの公家達が次々に返り咲いたまでは良いのですが、その地位を傘に非常に大きな態度をとります。また、以前幕府軍の一員であった足利高氏が、その働きによって内裏昇殿を許されたため、非難がゴウゴウと湧き上がりました。(この時より後醍醐は高氏に、「尊」の字を与え足利尊氏となりました) みんな、公家の世に返ると思っていたのですが、ふたを開けてみると新政の中身は、現実に戦った武家と、公家が賤しんでいる悪党……つまり民衆の政府となっていました。そして、15日になって、後醍醐天皇は二つの法令を発布します。
 第一は、土地領有の変更で天皇の綸旨が無いものは無効だとする法令。一応は「戦乱前の旧領主に返す」というのですが、それが定着しない間に、続いて「朝敵所領没収令」を出します。「旧領」というのも「朝敵」というのも、寝返ったり裏切ったりが数多く起こった今回の戦乱の中では、非常に曖昧な表現であった為、戦功のあった者も旧領を守ろうとする者も、綸旨を得ようと京都へ殺到するという大混乱を招きました。
 第二は、諸関停止の令。
これによって、交通の要所に関所が作られ、関料を取り立てられるのです。これによって商売や運送が著しく阻害されました。

 また、自分こそ絶対であると自認している後醍醐天皇は、戦乱のさなか、護良親王が正成と一致協力して各諸侯にばらまいた令旨(れいし)には、「見方になれば恩賞を与える」と約束した内容があり、そのことがすこぶる不快で、許せない心でいました。
 このように後醍醐天皇の傲慢で嫉妬深い性格は、建武の新政に失望感を与えて行くのは自明の理です。
 建武元年(1334年)冬。正成が和歌山で起こった北条の残党を討伐するために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡されます。罪状は「二歳になる我が子興良(おきなが)を帝位に就けようと企み、尊氏以下の武士を討ち、天下を我が者にしようとした」というものでした。

(教訓)
 上に立つもんは、心の鍛錬から始めなあきまへん。
 独裁者が、跡継ぎをつくったちゅう話は
 聞いたことがおまへんさかいなあ  


<お詫び>……2008.10.20号の楠木正成?に於きまして、<天王寺>を「浪速の四天王寺ではありません」とありましたが、大阪天王寺区の聖徳太子建立の<四天王寺>のことでした。ここに訂正させていただきます。なお、バックナンバーはすでに訂正済みです。


この続きは、また来週……('-^*)/