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今週の喝 第184号(2008.10.27〜2008.11.2) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(6)〜

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偉人に学ぶ……楠木正成(6)

 赤坂城の戦いと時を同じくして、奈良と京都の県境に位置する笠置山で挙兵した後醍醐天皇は、あっさりと捕らえられてしまいます。そして、鎌倉幕府は、天皇を隠岐へ流すことに決め、西園寺公宗を使者に立て、髪をそり落とし仏門に入るように申し入れますが、この後醍醐という人、弱々しい性格ではありません。望みを捨てていないというか、楽観的というか、先見の明があるというか、それを一蹴します。幕府は天皇を殺すわけにはいかないと高を括(くく)っていた節も見受けられます。本当に強気の人でありました。
 太平記には、隠岐に流される途中、今の岡山あたりの道すがら、児島高徳(こじまたかのり)という者が現れて、
  「天、勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ。時、范蠡(はんれい)無きにしも非ず」
と桜の木を削って書いたとあります。この児島高徳こそ太平記の作者ではないかと言われています。
 越王勾践(えつおう・こうせん)は、呉(ご)に敗れてとらわれの身になるが、忠臣の范蠡(はんれい)が出でてついに呉(ご)を滅ぼした故事を引き合いに出し、後醍醐天皇の行く末に楠木正成が(范蠡(はんれい)のように現れること)を暗示しているのです。

 この時、楠木正成はそそくさと赤坂城を脱出し、後醍醐天皇の皇子である護良(もりなが)親王と連携して神出鬼没のゲリラ戦にはいります。このゲリラ戦が功を奏したのも、正成が如何に民衆の心を掴んでいたかの証拠です。
 さらに、正成は河内金剛山の要害・千早城に籠城し、城自体を囮にして、やり方次第では「幕府軍とて恐れるにたらず」ということを世間に喧伝するという情報戦を展開しました。
 と言うのは後世のうがった見方かも知れませんが、世論はそのように動き出したことは間違いありません。

=建武の新政=
 楠木正成自身、直接鎌倉幕府を攻撃したわけではありませんが、彼の戦略(目的)は大軍相手に長期戦に持ち込み、幕府の弱体を吐露するのが目的であったのです。1333年6月、隠岐から脱出した後醍醐天皇を正成は兵庫県の西宮まで迎えに上がり、七千の兵と共に京に入洛します。そして、足利高氏(後に尊氏)や新田義貞が六波羅・鎌倉を攻め落とし、140年続いた鎌倉幕府はここに滅びます。
 正成の奮戦は、有力御家人の倒幕参加を招いたという意味では、その役割は高氏や義貞以上とも言えるでしょう。
 そして、翌1334年後醍醐天皇は、朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートします。正成は土豪(悪党)出身でありながら、河内・和泉の守護を任されるという異例の出世を遂げます。

 後醍醐天皇の政治理念は、天皇主導の下で戦いのない世を築こうとしますが、なかなか部下達が思うように動かないため、「強権」が必要と考え、独裁政治を推し進めます。
 まず、鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、此度の戦の恩賞の比重を公家に高く置き、武士には低くしました。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課しました。朝廷政治をいち早く実現するという名目があるにせよ、この性急さは、諸国の武士の反発を呼び起こし、1335年建武の新政の立役者の一人であった足利高氏が鎌倉で挙兵するという一大事にまで発展しました。
 後醍醐天皇は世間知らずと言おうか、権力や権利は、人望の上に成り立ってこそこの基盤が固まるのです。いくら天皇といえども、その役職に威光は存在しません。例え存在したにしても、時間と共に行動自体が評価され、化けの皮がはがされてくるのです。また、どんなに頭脳が優秀で理想を掲げても、知識は人を動かしません。そこには、人を束ね、やる気を起こさせる独自のオーラがなければ、必ず反発を招きます。そして、「善き事は、カタツムリの速度で動く」という古来よりの言い伝えのように、人心がまとまり一つの志向性を示すには、一定の時間が必要なのです。

(教訓)
 「急いては事をし損じる」
 のことわざを忘れたら、えらいめぇにあいまっせ。


この続きは、また来週……('-^*)/