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今週の喝 第181号(2008.10.6〜2008.10.12) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(3)〜

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偉人に学ぶ……楠木正成(3)

 この「今週の喝」の掲載日(2008年10月6日)は、東京品川にあるキュリアン小ホールにて楠木正成をテーマにした「武士道コンサート」の日です。
成功裏に終わりますように……祈願!

 さて、土豪の武士であったが故に、楠木正成は鎌倉幕府の御家人たちとは文化も思想も独自のものを持っていました。今流で言えば、固定観念の打破に成功した集団でした。
 たった500の軍勢で、数万の幕府軍を翻弄し、兵糧が尽きるとそそくさと散霧する。本来、城を明け渡す侍大将は自決と相場が決まっていたのを逆手にとってゲリラ行動に移り、孫子の兵法よろしく、攪乱作戦に出ます。正成は後醍醐天皇の皇子(おうじ)護良親王(もりよししんのう)と提携して、大阪の和泉・河内を中心に神出鬼没、幕府を悩ませました。さらに、河内金剛山の要害・千早城に籠城して天才的軍略と山岳ゲリラ戦で10万に及ぶ大軍をかき回しました。
 この戦いの特徴は、正成自身、直接幕府軍を攻撃したわけではなく、その戦略は幕府の大軍を引きつけて長期戦に持ち込み、全国の武士達に幕府の弱体化を知らしめることでした。ですから、赤坂城の落城も、脱出も、全て予定の行動だったのです。これを元弘の役と言います。

=軍略家楠木正成=
 後醍醐天皇と謁見の翌年、赤坂城の攻防戦から1年が経った1332年、再挙兵の仕込みを完全に仕上げた楠木正成は、幕府軍の前にふたたび姿を現します。彼は、少しずつ、しかも確実に和泉・河内の守護(幕府の軍事機関)を攻略し、ついに天王寺を占拠し、京を睨む陣構えを整えました。これに対して北条氏は幕府の精鋭を差し向けます。しかし、楠木側は敵の4倍もの兵力が集結しており、その勢いは誰の目に見ても優勢でありました。そして臣下は、
「力責めで、一気に踏みつぶしまひょ」
と進言するも、正成は、
「焦ったらあかん。戦こうたら、こっちにも怪我するもんや死人が出る。孫子曰く、『良将は戦わずして勝つ』んや」
と提案を退け、謎の撤退をします。
 幕府のエリート部隊は、もぬけの殻となった天王寺を難なく占領し、
「楠木正成め、我ら鎌倉幕府の猛者に恐れをなして逃げ出しよった、ハハハ…」
と高笑い。
 ところが、夜になると天王寺の周りには何万という“かがり火”が焚かれ、幕府軍は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎えます。しかし、朝になっても正成軍に動く気配は無し。そして、また夜になると再び無数のかがり火が寺の周りを包囲します。
「いつになったら、きゃつらは総攻撃を仕掛けてくるのか……」
とイライラは募るばかり。こんな状態が四夜も続いたので、精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍は、ついに天王寺から撤退。
「みんな見てみい、敵が逃げて行きよる。孫子曰く、『帰師は遏(とど)むる勿(な)かれ』逃げよと思とる敵は、最後の力を振り絞りよるさかい、邪魔したらあかんで」
見事なまでの戦術です。正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利しました。
 実は、このかがり火は、近隣の農民5000人に協力してもらい、大軍勢に見せかけたものだったのです。

 そして翌1333年如月(きさらぎ)(2月)、幕府は目の上のタンコブ正成の息の根を止めるべく、八万騎の大征伐軍を追討に向かわせます。この時、正成は1000人の兵と共に、今度は赤坂城のちょっと隣にある千早城に籠城します。
 幕府軍は、今度はどんな奇策をもって攻撃してくるかと警戒するあまり、全く近づくことが出来ません。
 孫子曰く「上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」……最も戦いの上手な戦争は、はかりごとを未然に打ち砕く。その次は敵国同士の同盟関係をつぶし同盟関係を破棄させ孤立無援に追い込む。その次は、敵国の軍隊との交戦。最もまずい方法は敵の城を攻めることであると、孫子が言うのですが、軍議の末、2年前の赤坂城攻防戦と同じく、下である城を包囲して兵糧攻めにすることを選んだのでした。八万騎に囲まれた正成軍1000人の運命や如何に……。

(教訓)
 民衆の心を掴むんが、戦争に勝つための第一歩でんな。


この続きは、また来週……('-^*)/