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今週の喝 第180号(2008.9.29〜2008.10.5) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(2)〜

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潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(2)

 楠木正成をまつる神戸・湊川神社の宮司さんが、「戦前は忠義の士として、教科書始め多くの書物に日本人の鏡の代表にあげられていた楠公(なんこう)さんも、今は教科書に一行だけ。しかも当時の鎌倉幕府から“悪党”と呼ばれたと言う箇所が強調され、悪者であるかのような印象を、皆さんが持っていることが残念です」と、語っておられました。
 歴史の解釈は、それ自体を正しくとらえることがとても困難です。とくに、楠木正成のように、鎌倉幕府からは逆賊「悪党」と呼ばれ、後醍醐天皇からは忠臣の代表として頼られ、その後の足利室町幕府では、その名を抹消せんばかりの扱いを受け、江戸時代の水戸黄門こと徳川光圀が、彼の正当性を歴史的に証明し名誉回復をはたし、大日本帝国の下では忠義の鏡として扱われ、戦後の日本では進駐軍の意向も強く働き、全く無視されるという数奇な運命を辿った武将も珍しいです。
 ここには、それぞれの時代の社会事情が大きく反映され、当時の政府の都合に翻弄された感が否めません。こんな、人物であるからこそ、その人間の持っていた真の精神構造を解明することが、必要であると私は考えます。そして、歴史に登場する期間がたった六年であるにもかかわらず、戦前の人間で知らないものは誰もいないスーパースターともて囃されたわけをしっかりと追ってゆきましょう。

=後醍醐天皇との出逢いは=
 「悪党」とは、野武士やあぶれもの、強盗、ばくち打ち、押し買い等の集団で、やがて、彼らは自分たちの利権を守るべく武装し徒党を組み当時の鎌倉幕府も手に負えない存在に発展してきており、まさしく悪者でありました。正成がこの様な無頼者であったかどうかは分かりませんが、その者たちを統率していた大阪河内の新興武士団の親分であったことは、ほぼ間違いないでしょう。
 そんな悪党が、なぜ後醍醐天皇の目にとまり、重用されていったかを見ることは、名もない者が歴史に登場するまでになる立身出世物語ですので、現代社会においても、大変重要な「人間の在り方」の手がかりになると私は考えます。 当時の武士は強ければ文盲であっても恥でも何でもなかった時代です。ところが大阪府河内長野市にある観心寺で、多聞丸(正成の幼名)が学問をしていたらしいと記録が残っています。そして、きっと聡明であったに違いありません。「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し(才能は幼少期よりその兆しを見せる)」のことわざ通り、その名は多くの人々の耳に届くようになったことは、想像できます。
 そこで、後醍醐天皇と正成の出逢いを、天皇側から見てみましょう。鎌倉幕府が元寇により衰退し、時の将軍北条高時の遊興三昧を見るに見かねた後醍醐天皇は、幕府打倒を企てますが、彼最大の悩みは軍事力がないことでした。天皇は武士の力を利用しないと自分の理想を実現できないと考えたのです。
 その為には、綸旨(りんじ)という天皇が発する命令書を出し、武士たちに働きかければよいのですが、綸旨さえ出せば武士なら誰でも天皇の言うことを聞くほど世の中は甘くありません。
「綸旨を出すのはええけれど、裏切られて、幕府に注進でもされたら、苦労は水の泡でおじゃりますなあ」
 綸旨を出すなら、「反幕府!」と明快に態度を示している者に出さなければならないのです。従って天皇が悪党を利用したのは、必然の作戦だったと私は思います。そして、その勢力図と地域性を考慮し、いろいろな情報をあつめて見た結果、天皇のスパイであった日野資朝(ひのすけとも)らの情報から、また正成が学んだ観心寺の僧侶・文観(ぶんかん)が醍醐寺報恩院の道祐(どうゆう)に推挙したりして楠木正成の名が後醍醐天皇の耳に届いたように思います。
 そして、一度どんな人間かを調べるために正成を呼び寄せ、先回書きました謁見に至り、一目で、後醍醐天皇は正成の人と形(なり)を気に入りました。
 その後、後醍醐天皇は京都府の南端に位置し奈良との県境にある笠置山で、正成は、大阪府の千早赤坂村の赤坂城でそれぞれ挙兵します。そして、熱湯や巨木岩石作戦、挙げ句の果てには糞尿作戦が功を奏し、力責めで赤坂城は落とせないと判断した幕府軍は、兵糧攻めの持久戦に入りますが、20日間持ちこたえた楠木軍は、食料がなくなると、そそくさと城に火をかけ、蜘蛛の子を散らしたように退散してしまいます。この時、幕府方は、当時の慣習から、城に火をかけたと言うことは正成も自刃したと思い、「敵ながらあっぱれ」と賛辞したと言います。当の正成は、「あほか、わしはおいそれとは死なへんで、これも作戦や」と、地の利の詳しさで遁走を計りました。 一方、笠置山で挙兵した後醍醐天皇はあっけなく捕らえられ、日本海の離れ島隠岐に流されました。

(教訓)
 小さい時より、勉強はしとくもんでんなあ……。
 天皇はんの目にも、とまりまっさかいなあ。


この続きは、また来週……('-^*)/