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今週の喝 第175号(2008.8.25〜2008.8.31) 〜偉人に学ぶ……白隠禅師(27)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……白隠禅師(27)

 白隠禅師は、坐禅和讃の中で、なぜ坐禅というものが必要なのか、また坐禅をすることの効用はなにかなど、懇切丁寧にたとえ話をふんだんにちりばめて我々に語りかけてきてくれます。
 殺伐とした社会に生きる現代人は、その文明の恩恵の部分は忘れてしまい、そこに横たわるマイナス面だけに意識を奪われ、その結果、自分を制御する心を失い、いじめやうつ病、無差別殺人など社会問題となっています。
 しかし、実際は現代社会ほど衣食住が充実している時代は嘗てありません。毎日輸入する食料と同じ量の食べ残しが生じ、それを廃棄している。つまり、輸入した分だけ捨てている日本の食糧事情は、異常としか言いようがありません。その反面で、地球のどこかで今も飢餓にあえぐ人が大勢いることなど全く関知しない鈍感な感性に陥ってしまいました。
 これは、「起きに半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」と言うことわざがあるように、自分の生活範囲は決まっています。しかし、それを逸脱してしまったら“強欲”の虜になってしまいます。今こそ我々日本人は「足を知る(たるをしる)」知足の心を復活させなければならないのです。白隠禅師が坐禅和讃で謳う「譬えば水の中に居て、渇(かつ)を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず」を地で行っているのです。

=白隠禅師・坐禅和讃2=
 白隠禅師が活躍した江戸中期にしたためられたこの坐禅和讃は、21世紀の現代社会の矛盾も鋭く指摘しています。これは白隠に千里眼的素養があったのではなく、人間の社会が存続する限り、逃れることの出来ない人間の持つカルマがそのようにさせるのです。人間の感情の最も愚劣な「怒り・愚か・貪り」もそれに気づいて初めて修正して行くのです。その為に、何が正しき姿なのかを感じ取ることそこ坐禅の意味なのです。

  それ摩訶衍(まかえん)の禅定は
   称嘆(しようたん)するに余りあり

  布施や自戒の諸波羅密(しよはらみつ)
   念仏懺悔(ざんげ)修行等

 その品(しな)多き諸善行(しよぜんぎよう)
   皆この中(うち)に帰するなり

大乗仏教の“禅定”は、人間の過ちを気づく手段としては、とても素晴らしいもので、最高であると賞嘆してもあまりあります。そして、釈迦の教えの布施や自戒の諸々の行い(六波羅蜜(ろくはらみつ))、念仏、懺悔(ざんげ)の修行など沢山の善行も、全て“禅定”の中から気づいてくるのです。
 「摩訶(まか)」とは偉大、そして「衍(えん)」はと言う意味で、摩訶衍とは大乗仏教のことです。仏教は本来、己自身が修行をして悟りを開くことを目的にして始まった宗教ですが、それに対して、修行者が仏教の精神を広く説くことによって、人々が修行せずとも信仰することが出来ると説いたものが大乗仏教です。
 その大乗仏教が「これぞ最高の修行である」と喝破したのが「坐禅」なのです。坐禅をすることによって、人間は布施の真の意味や、自戒の必要性に、ハッと気づくのです。
 現代社会で、慌ただしく他人との競争に明け暮れ、己の欲望に翻弄されている人間には、自分を振り返る時間など持つことはないでしょう。しかし、一度ゆったりとした心境に自分を置いて、自分を振り返ってみると、心地よく、今の自分に足りないものは何かが分かってくるのです。

  一座の項をなす人も
   積みし無量の罪ほろぶ

 悪趣(あくしゆ)何処(いずく)に有りぬべき
   浄土即ち遠からず

 一回だけの坐禅でも、今まで犯した罪はなくなります。本来、罪というものは何処にもないし、浄土は遠いところにあるのではありません。
 坐禅とは、かくも効力のあるものなのです。心静かな振り返りは、我々に人間の犯す罪とは何かを心から教えてくれます。この師匠が私の心中に住まう仏です。しかし、この存在に気づかないのは、我々がいつもあくせくと欲望を追い求め、自分の失敗を他人の所為にして恨みを持ち、それがあたかも自分が正当であると吹聴してまわる醜態を常に蒔き散らかしているところに原因があります。
 そもそも、罪という意識に気づいた人間は、罪というものを犯すことはありません。だからこそ浄土(仏教で言う理想の地、清められた場所)は、決して我々から遠いところにあるのではなく、まさしく今いる場所が浄土なのかもしれません。まさしく、これこそ「知足(ちそく)」なのです。

   知足こそ人生の要!


この続きはまた来週……('-^*)/