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今週の喝 第158号(2008.4.28〜2008.5.4)〜偉人に学ぶ……白隠禅師(10)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……白隠禅師(10)

 白隠禅師内観法や軟酥(なんそ)の法は、自分の中に眠る自然治癒力を活性して免疫力を増し、病を癒す方法です。従って、現代医療のように自分ではなく、医者が主体になって我々の身体を診察する治療法に慣れている我々には、なかなか受け入れ難いものがあります。
 しかし、私はこの半生で病気や怪我で不思議な体験をいくつもしています。先ず、二歳のよちよち歩きの冬のことです。煮えくりかえったお湯を毛糸のセーターの上からかぶってしまい、身体の三分の一を大火傷したのです。今なら、すぐに外科の門を叩いて、その治療を受けるのでしょうが、私の祖母である芳枝ばあちゃんは、両親の意向を振り切って、押し入れの奥から何やら不思議な液体の入った一升瓶を取り出し、それを一晩中私の患部に湿布し、熱が取れるまで繰り返してくれたのです。
 すると明くる日には、皮膚表面から熱がとれ、一週間ほどで火傷した皮がベロッと剥がれ、不思議なことに三週間ほどできれいに治癒してしまったのです。そして、今でもほとんど火傷の痕が見えないもち肌です。
 また五歳の秋に、急性腎炎にかかった時も、西宮市民病院に入院していたにもかかわらず、芳枝おばあちゃんは私に小指の頭くらいの焦げ茶色の丸薬(正露丸の親玉のようなもの)を七粒ほど、一週間にわたりジャムパンの中に押し込めて(その味が分からないようにして)私に食べさせました。後から教えてもらったのですが、当時腎臓病の患者には塩分は御法度と言われていた時代に、ジャムパンですから恐ろしい話ですね。
 すると、これまた不思議なことに、主治医から「小学校へ行くのは一年遅れます」と言われたにもかかわらず、たった40日で退院し、無事に家でお正月を迎えることが出来たのです。

=助け船を天は差し向けてくれる=
 私は今でも火傷の薬のあの悪臭とこげ茶色の丸薬の味をハッキリ覚えています。後年、芳枝おばあちゃん(私が十歳の時に老衰でなくなりました)にこの火傷の特効薬について尋ねたことがあります。その製法は、鬼キュウリ(種を取るために巨大に成長させたキュウリ)を大根おろし(この場合はキュウリおろしでしょうか)ですりおろし、それを木綿の布でこした絞り汁を一升瓶に詰め、栓はわら半紙のようなざら紙を丸めて(ゴミが入らず、空気が出入りできるようにするため)瓶の口に詰めます。そして約一年間、押し入れなどの常温の冷暗所でねかせ(と言うより腐らせ)たら完成です。鬼キュウリは、農家の方に頼むと作ってくれると思います。本当に簡単に作れ、効き目は抜群です。しかし、恐ろしく臭(くさ)いのが欠点ですが、逆にこの匂いが火傷を注意するテンションとなるから不思議です。
 それから、こげ茶の腎炎の薬は、私が入院している最中に、三日間ほど芳枝ばあちゃんが行方不明になり、家に帰って来た時は、衣服は汚れ、顔も煤(すす)けだっていたそうです。どこへ行っていたのかと父が尋ねると、奈良の山奥の某行者のところに行って、お祓いをしてもらい、そこで薬をもらってきたというのです。きっと信心深い芳枝ばあちゃんのことですから、共に禊(みそぎ)か修行をしたので、衣服が汚れていたのではないでしょうか。そして、一刻も早く孫にその薬を呑ませようと家にも帰らず病院へ駆け込んだに違いありません。ところが、何故か某行者のことは絶対に教えてくれないのです。それから五年後、芳枝ばあちゃんは亡くなりました。私の命を救った丸薬や祈祷をしてくれた行者に今は心の中でお礼を言うばかりです。

 白隠禅師にとっての正受老人や白幽子との出逢い、私にとっての芳枝ばあちゃん、ここにある共通項は、どちらも今の科学ではハッキリと解明されない人間の奥に潜む「生命力」という不思議な力を喚起させることによって、その命を救い、将来に何らかの使命を持たせたところにあると思います。
 病気は本人のみならず、周りの人間にも考え方や感じ方、行為行動に気付きを与えます。その時に、病気を恨み、自分のことを顧みなければ(病気の所為にすれば)その「気付き」は絶対にくることはありません。
 今現在の自分の姿は、過去の自分の行いの結果であると、お釈迦様が因果応報を説いたように、結果は自分の所行(原因)に因るものです。その行いは、その人間の感じ方・考え方から始まります。だからこそ、自分の心をただすことこそ最も重要です。全て自分という訳です。
 自分の中に偉大な自然治癒力が存在し、それが外界とのつながりによって変化するのです。我々人間の外界との自然な接点は、息を吸うことと食べ物を食べることです。宗教における修行の多くが、呼吸の訓練であるのは、坐禅や読経三昧をみても明らかです。すなわち、自分をただす心構えがあって初めて、気付きも、出逢いも我々にその意味を語りかけてくるのです。

   捨てる神あれば拾う神あり、
            観自在菩薩


この続きはまた来週……('-^*)/