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今週の喝 第150号(2008.3.3〜2008.3.9)〜偉人に学ぶ……白隠禅師(2)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……白隠禅師(2)

 長沢岩二郎白隠禅師の幼名です。彼は1685年(貞享二年)12月25日、東海道五十三次の内十七番目の宿場にあたる原宿(現在静岡県沼津市原)にある旅籠・沢潟屋(おもだかや)で二女三男の末っ子として生まれました。長沢家は五十三次駅亭の長(おさ)を努める家柄で、後に白隠さんの寺として、彼が居を定める鵠林山(こくりんざん)松蔭寺(しよういんじ)の中興の祖・大瑞宗育(だいずいそういく)が叔父さんという、大変宗教的な環境の中で育ちました。

 そしてもっと興味深いことに、母の妙遵(みようじゆん)(法名)は、ある夕べ、伊勢の大神宮のお札が飛んできて、威風凛々としてその屋敷の屋根の上にたなびいている夢を見て、白隠を孕んだという逸話が残っています。
 岩二郎(白隠)は、三歳まで立つことが出来ないほどの病弱でしたが、逆に心は極めて早熟でした。四歳の時に和歌三百余首を一字もたがえず暗唱したり、七歳の時に寺に詣でて、法華経堤婆品(だいばほん)の講話を聞き、家に帰って祖父母にその話をそのまましたので、皆その記憶力に舌を巻いたと言われています。
 母は、大変信心深く、よく岩二郎を連れて近所のお寺に法話を聞きに行きました。そして岩二郎十一歳の時、日蓮宗の僧・日厳(にちごん)上人という高僧が、「摩訶止観(まかしかん)」の説教をし、地獄の図を掲げてリアルに因果応報・地獄の八大苦患(はちだいくげん)の有様を語りました。岩二郎はその恐ろしさにとうてい地獄の苦しみは免れないと絶望し、懊悩(おうのう)したと伝えられています。
 また、十二歳の時、村祭りの芝居で、日蓮上人の高弟・日親上人が異端として捕らえられて拷問を受け、ついに真っ赤に焼けた鍋を頭の上にかぶせられ、それでも日親は平然とひたすら法華経を読誦(どくじゆ)し続けるという場面を見ました。岩二郎は、この「鍋かぶり日親」の芝居を見て、一心不乱に読経、称名(しようみよう)、信心すれば、苦難を逃れられるのかと考え、読経をしながら熱した火箸を腿に当てたところ、たちまち皮膚は焼けただれ、七転八倒。こんなことではとうてい地獄の責め苦を逃れることは出来ないと考え、いよいよ出家して修行に励もうと決心を固めます。

=感受性こそ悟りのエネルギー=
 白隠の子供時代は、病弱で利発、記憶力抜群というアンバランスな感覚感性で育ちました。かく言う私も五歳の時に腎臓病を患い、十二歳くらいまでの命といわれたことがあります。病弱であると、全てをマイナス感性で捉えてしまい、頑張ろうとか、努力することを肉体上でやろうと思わなくなったことを覚えています。それ故、自分が被害者意識に埋没してやるわけですから、絶対に能動的で前進志向のものとはなりません。自分の中のマイナスの感情全てを、病弱の所為にした自分を思い出します。
 白隠は、その上頭脳聡明でした。病気が原因で消極的な感性になっている事を知っていたでしょう。しかし、自分の中にある怠け心を病気の所為にしてしまう自分をがいる。自分の所行の原因・結果(因果律)は誤魔化すことは出来ません。そんな時期に、八大地獄の図を見せられ、自分もそこへ行くと考えてしまい、全ての感受性は徹底的に悪い方に傾き、その結論が地獄思想と相まって、白隠の苦悶の日々は続きました。つまり頭が良いゆえに、苦しみ悶えた少年時代でありました。
 同じように、お釈迦様の幼少時も病弱で聡明でした。ある日、夢の中で、毛虫が小鳥に喰われ、その小鳥は猛禽に喰われ、猛禽も肉食動物に脅かされ、猛獣すら、人間にやられて毛皮の敷物となるという、いわゆる「弱肉強食」の掟を知り拒食症に陥ったと言います。
 「苦」がピークに達した時、白隠もお釈迦様も出家を志し、何かに背中を押されたように悟りへの旅立ちを決心したのです。
 色々な人生を見てきましたが、人はその苦しみが生半可では、自分の側にある弱点や欠点には気付かないのです。どん底の苦しみに落ちてなお、何かにすがりたい、助かりたいと思う人が、自分の間違いに気付くのです。その気付きは、不思議な事象や出逢いをもたらし、間一髪のところで道は開けます。
 この事について私は、奇跡的な出逢いや事象はいつでも、どこでも、誰もが遭遇しているにもかかわらず、そのことを必要と思わないので、自分の真横にあっても気付かないのではないかと思います。
 従って、究極の苦は、人を機敏にし、道を求めることを放棄しない(諦めない)限り、天は見放さないと私は信じています。
 苦悩の淵をさまようことは、人を敏感にします。その敏感性によって、多くの人々が自分と同じ苦の淵にいることを感じ取り、自分が苦の代表者として、その対処対策を模索し、回答を出すことの使命に気付いてゆくのです。

 天よ我に七難八苦をあたえたまえ  山中鹿之介


この続きはまた来週……('-^*)/