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今週の喝 第603号(2016.11.7〜2016.11.13) この世は全て催眠だ(345)〜道教の根本「道、徳、無為、柔」は幸福の要素!〜

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この世は全て催眠だ(345
〜道教の根本「道、徳、無為、柔」は幸福の要素!

 中国には、その昔より仙人といわれる超能力者が“仙道”をもって世の民を救い、そこに多くの民が、同じ過ちを繰り返さないと言う想いから仙人の教えを、自分達が理解し、納得できるように“戒め”として人間の理想の形を作り出しました。それは、長年月を経る内に、神話的精彩を帯び、おとぎ話として親から子、子から孫へと言い伝えられて行ったのです。
 そんな中の仙人の中の一人に老子がいます。老子は、「道、徳、無為、柔」の四つの人間情理を全うすることで、愛に満ちた幸福が得られると説きました。
 「道」は“タオ”と読み、人の人生に於ける“目標と目的”を明快にすること。目標とは自分が目指した到達点で、それをシッカリと“形”としてイメージすること。そして、イメージした形を、自分自身が何故到達点とするのか……簡潔に言えば「何のために」それを求めるのかという“心構え”をハッキリさせておくこと。これが「目的」です。ですから、目標は《形》、目的は《心構え》と認識しておけば理解しやすいですね。従って、自分が歩む人生の「道」は、自分の生まれ育った人脈や環境から、自分の感性で感じ取った行くべき方向を、深く考察して“形”と“心”の双方から到達点を決めた時に現れる、目に見えないけれどハッキリとした方向性のことを指します。そして、このように“形”と“心”を決めた時に、物事が成就する……この法則性もまた「道(タオ)」なのです。
 「徳」については、多くの解釈が存在します。有名なところでは、二宮尊徳がその深遠な世界を説き、それを実戦に用いて多くの人々を救いました。ならば、「徳とは何ぞや?」と問われると、分かっているようで明快さを欠きます。そこで、私は逆に、二宮尊徳の行った善行を調べ、そのエッセンスを抽出したところ、人々を“助け、世話し、面倒を見た”の三つに集約されます。そして、人々に余裕が生まれた時に、尊徳はシッカリと彼らに自分達が不幸を招いたのかを説教しています。
 ですから「徳」とは、英語で覚えれば分かりやすいので、
     Follow、Care、Coverと覚えましょう。
 
★★老子の教えは「催眠」のベース★★ 
 老子は、我々に上記の「道経」と「徳経」の二経を我々に残してくれました。昭和20年以前の日本はこの“道徳”を、孔子の儒教と合体させて「修身」の授業で幼年教育をし、真っ直ぐな人間に成長させるべく用いました。
 その教科書を紐解きますと、我々が軍国主義に傾注するような教育とばかり思っていた誤解を恥じるようになります。そこに書かれているのは、それこそキリストの黄金律「して欲しいことは、してあげなさい」を彷彿とする人間愛に充ち、隣人同士が高め合う心の喚起が認めてあります。
 子供の頃、戦前の修身教育は好戦的気運高揚の権化のように教えられていたのが、実は逆洗脳であったように思います。やはり、私たちは何か何処かで間違ったことを教えられ、植え付けられていたように思います。
 皆さんも「老子」を読んで下さると分かりますが、そこに書かれている人間行動は、まさに「されて嬉しい!」こと、「そう! それで苦しんだ」と納得させられることのオンパレードです。読んだ後の清々しさは、まさに催眠に掛かったように「快い」のです。
 そして、次の「無為」とは、ただ単に「何もやらない」ことではなく、自分から欲におぼれて、辻褄の合わない人生を歩まないように自分の心を制御する術を指しているのです。現代の言葉で言うと、「相対性」と言えば良いのでしょう。「相対」の反対の言葉は「絶対」で、絶対は老子の言う「道(タオ)」のみです。「道」は強いて言えば、この世を司る根源=法則性の事ですから、決して揺らぐことはありません。絶対とは「道」そのもののことを指します。それ以外は、「道」(法則性・絶対)に対して、あらゆる事を対応することが「相対」です。絶対はそれを司る諸条件(例えば温度や密度)によって変化するように見えますが、それも法則性の中のことです。この世に、現存するものはこの“絶対”に対応し、順応できたものだけです。それは、生物進化を見ても明らかです。これが大自然の「相対性」です。
 あらゆる事象は、絶対性の法則によって動いていますから、我々はその法則に気付かなかった頃は《神》と呼んでいました。
 石川洋先生の格言「人生逃げ場なし!」とは、神の法(絶対)から逃げることは出来ないということです。ならば、我々人間は、その神から与えられた英知をもって、神に対応してゆけば良いのです。それも挑戦するのではなく、柔軟(フレキシブル)に対処するのです。その柔軟性が知識となって、事象に対する予測が立てられるようになった時、我々人間はいよいよ神(絶対)と共存できるのです。それが相対性なのです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/