M&Uスクール

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今週の喝 第605号(2016.11.21〜2016.11.27) この世は全て催眠だ(347)〜「催眠」は相対性の極み…… それは「道」の本質!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(347
〜「催眠」は相対性の極み……
 それは「道」の本質!

 「催眠」のお話と“老子の教え”……一見、何の関係もないように思いますが、わたしの解釈では、思想的に
 「何にも逆らわず、相対的にあらゆる事に対処し、その中から、自分の望む方向へ物事を推移する方法を見いだす」
ことで、完全に一致するのです。
 催眠とは幾度も申しましたが、相手に“快”を与えて、心そのものを「快を通してこちらの意に沿うように誘導する術」です。ですから、老子の教え「道教」にある、「道、徳、無為、柔」は、先回も申しましたが、あらゆるものに対して“相対的”に対応することで、“絶対”であるこの世の法則性を大活用し、自分達の生き様にシッカリと組み入れ、反映してゆこうという思想であり、また行動原理なのです。
 「道(タオ)」は、自分の目指す方向性“目標”、そして、それを「何のために行うか」という動機付け=“目的”、それが、世の法則に合致しているかどうかの確認をして、初めて成立します。
 ですから、「道」とは、宇宙と我々人間が歩む人生との根源的な関係(法)を示しており、不滅の真理を指します。道の字を分解すると“之(しんにゅう)”と“首”で、之(しんにゅう)が終わりを、首が始まりを示し、太極的二元論(陰陽)を表しています。もっと分かり易く言うと、生まれてから死ぬまでの間の“人生”を有意義に過ごすためには、生まれる意味、死ぬ意味を悟り、生も死も一体であることを実感した者だけが得る境地「不老不死」の体感を目指したものです。
 やはり、分かり難いですね。粗っぽく言うと、この世に生まれてきた意味、そして、人生を如何に有意義に過ごせば良いのかを模索し、やがておとずれる死の意味を実感することで、生きているのか死んでいるのかなど、どうでも良いくらい小さいことのように感じた人間が、この世を制した者=仙人となるのです。ますます、分らなくなってきましたね。
 
★★「目標+目的」は“道”に至る入り口!★★ 
 ですから“道(タオ)”は学ぶことはできるが、教えることはできないと言われ、言葉で言い表すことのできる“道”は真の道ではないとされ、道を極めた人の書いた書物や言葉でも、“道”を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不偏の道」は各自が自分自身で実感し見いださなくてはならないと言われているのです。
 このように深遠な摂理である“道”ですが、「学ぶことはできる」のです。それは、「学ぶ」と言うより「感じる」といった方が適切でしょう。そもそも、人間の(感じるという)感性は、大まかなもの……例えば、温度や湿度といったものは、向こうから「感じさせてくれる」くらい差が大きいので分かりますが、繊細なもの、微妙な感性は、こちら側が感じようとしない限りそのような差があるのかすら気がつきません。ですから、私たちは能動的に「気付き」を求めないと“道”の存在すら気付かないのです。
 そこで、M&U SCHOOLでは“道”を「目標(形)+目的(心構え)」と「気付き」の“入り口”を示唆したのです。自分が到達したいところを想定して、そこへ何故行きたい(成りたい)と思っているのか、そして、そうなるために自分がどうあるべきなのか、その在り方は“法”に沿っているのか、逆らってはいないのかと、あらゆる方向からモノを見てゆく内に、自分自身が「何ものにも逆らわない」ことこそ、法を感じ取る手段であることに気付きます。それこそ“無為”の境地の修得です。
 間違ってはいけないことは、“無為”とは何も為さないこと、何にも逆らわないことではなく、“道”の有様を肌で直感するために、こちら側の意思や作為があればそれによって“道”自体が歪んで見える故に、己の側を虚しくする(自分を亡くす)事なのです。
 眼鏡に赤いセロファンを貼れば、世間が赤く見えるのと同じです。実際の世界の色とは違う景色ですね。“セロファン”とは私たちの「心」の喩えです。常に無色透明でなければ、正しく世界を見ることはできません。初めにも言いましたが、私たちの心は“快”に偏る性質を持っています。だから、「催眠」に誘導できるのですが、悪い用い方をする人間が多いので、「催眠」というと“胡散臭い術”と取られてしまうのです。
 「催眠」を悪用する人間……それは、人が“快”に流れる性質を利用して相手をコントロールし、自分の利益になるような計らいをする訳ですから、我欲によって自分の心が歪んでいます。そして、それが上手く行けば“楽と得”が手軽に手に入るのですから、色つきセロファンの眼鏡でモノを見る癖が付き、とうとう無意識に歪んだ見方(偏見)になります。無意識ですから、当人にはこれが偏見だとは気付きません。また、催眠に掛かる側も同様に、快や楽を与えてくれる人間は善人と錯覚します。これも催眠法則です。
 いやはや、人は楽と得を求める性質に気付かない限り、催眠=悪の汚名を返上することは難しいのです。そればかりか、歪んだ眼(偏見)を育んでしまい、世の中を正しく見ること(正見(しようけん))ができなくなってしまいます。
 “無為”になることとは、偏見を亡くし正見の眼を育てること、その為にも、世の中には法から外れたもの(例外)などない事を学ばなければならないのです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/