M&Uスクール

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今週の喝 第122号(2007.8.20~2007.8.26)〜成功への準備はスランプ克服から(19)!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

成功への準備はスランプ克服から(19)!

 スランプに陥る人間は、自分の将来あるべき姿や、なりたい姿(成功イメージ)を明快に持っていないか、希薄であるために、周りによってそのイメージが掻き乱されます。
 これが「心の惑い」です。
 このような惑いが生じた時は、その原因究明をしっかりとする必要があります。落ち着いて、自分の過去を振り返り、その内容が摂理と合致していないところを探してゆくのです。
 この作業の内に、「こんな悠長なことは出来ない」と心の焦りを感じた人は、きっと自分が目標とするものが、本当にそれを求めているのではなく、金銭や名誉など欲望のすり替えによって生じた「ニセ目標」なのかも知れません。自分の心の標的が偽物であると、必ず楽と得を求めて(イージーに)物事を解決しようとします。そして心が掻き乱されるのです。
 これが「心の迷い」です。
 迷いと惑いが心に共存する人間は、その行動は一貫せず、発する言葉も朝令暮改的で(本人は臨機応変だと錯覚していますが)、文字通り「迷惑」な存在です。
 この状態が起きると、その心は完全に気が散ってしまっている(気散状態)ので、何事も情成就しないばかりか、目標を見失っているために、何を何のためにやるのかという「目的意識」が心から散霧し、焦りといらだちの中から五里霧中(何をどうして良いか分からず、自分の位置すら掴めない) の最悪状態に陥ります。そして、これを放置しておくと(反復したのと同じ結果を生み)、我々の潜在意識はこのような思考・行動状態を自分の性質に組み込んでしまい、「スランプ型人間」になってしまいます。
 そして、さらに恐ろしいことは、自分の人格を確立するために無意識に、そして意味もなく「自分の所業は正しい」と信念化するため、それが高じるとうつ状態に陥ったり、病的になると分裂状態になったりします。

 =心の悪魔……それは気散= 
 今、フランスでは「禅」が宗教を超えて大流行し、カトリック教会で坐禅が行われているところもあります。禅とは何か、悟りとはと問われると、一朝一夕には回答できないのですが、一つだけ分かることは、それを求めるほど「人々は心を痛めている」ということです。
 禅は「無」の境地、「空」の実感に至るものと文字では理解できます。しかし、実際の心はいくら講釈を並べてみても安寧の境地にはほど遠いのが凡人の実情です。常に周りを気にし、欲望に翻弄され、悪いのは世間で自分は正しいと思い込もうとしても、誰しもが心の奥底に持つ「仁」との摩擦によって全く確証が持てない「正しさ」にいつも左右されているのが凡人の心の実態です。
 又、「自分は幸せ」と感じている人の多くは、本来の人間が生まれてきたと同時に持っている苦しみ(生老病死・原罪)にすら気付いていない幼い精神の持ち主です。この者達はこのままの精神で行くと、「知らぬが仏」のことわざ通り、世に対して何の影響力も指導力も持たず、精神の成長もない(この世に生まれてきたこと自体が無意味ではないかと思われる)まま、一生を終わる事になるかも知れません。それこそ一休禅師が言った「人糞製造器(人生は、喰うて糞して寝て起きて)」です。
 「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」というこの林芙美子の言葉こそ、人の人生の意味をその裏に示しているのです。その真意は「苦しいからこそ、その意味を知ろう」と言うことだと私は解釈します。
 その為にも、気散は心の大敵です。その敵が自分の心に住まうのですから、それを造った「天」の意志から判断すると、ただ一つ「どうにかせよ!」と言っていることだけは確かです。これが「苦」を醸し出しているのですから……。
 そしてまた、世の偉人と言われる人の伝記を読めば、「苦の踏襲なくして成功無し」小泉前首相の言葉では「改革なくして、成長なし」の人生を歩んでいるのです。考え方を逆にしてみれば、
人間を成長させるために「天」が試練を与え、その解決策から智恵も体得するシステムを作ったのかも知れません。
 そうすると、我々の「気散」と言う心の悪魔との対決は天の意志であり、何があっても乗り越えなければならない人生必須課題なのです。
 我々の中には、最低でも「理性・感情・欲望」という三つの心が同居しています。これを統一することが「集中」です。集中するためには、自分の内側を深く探求する必要があります。以前に「内観法」について書きましたが、これは自分を知る最善の方法だと私は思います。
 さて、自分の中身が分析できれば、後はそれを矛盾なく一つにまとめるだけです。

 

続きはまた来週……!