潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
成功への道しるべ!この世は全て催眠だ839
我が家のFamily History!
今振り返ると、私が生まれ育った昭和20年代は、我が国日本が敗戦の焦土からみんな一丸となって、未来を夢見て猛烈に努力をしていた時代でした。私は1952年(昭和27年)生まれですので、戦後の独立を果たした年でした。そして、甲子園球場の南にありましたアメリカ進駐軍のキャンプに、米兵が占領地から撤退をしているところを覚えています。後にその進駐軍跡地は日本で確か初めての集合団地(甲子園浜団地)が出来て、今も健在です。聞くところでは、そこには戦前、川西航空の工場跡地だったようで、終戦時に活躍した局地戦闘機「紫電改(しでんかい)」や「雷電(らいでん)」などのテスト飛行が行われていたようです。昭和30年頃までまだ少数の米軍の兵隊達がいましたので、私(3歳)も彼らにチョコレートを貰った覚えがあります。
この少し前の時期、我等が得津武史先生は、教師の仕事をしながら、進駐軍のキャンプ回りをして日銭を稼いでいたと、生前おっしゃってました。後に分かったのですが、得津先生は、戦時中、満州の僻地で中隊長の命により軍楽隊を組織して、その時、自分もトロンボーンを練習されていたようです。(一度も演奏を聴いたことはありませんが……!)
また我が父も、17歳で東京武蔵野にあった帝国陸軍の通信学校に志願して行っていたようで、ちょうど広島に原爆投下された同日の真夜中に、我が街西宮にも大きな空襲があり、その時、爆弾の破片で祖父・久吉が亡くなったと聞いております。その訃報が通信学校に届いたので、まだ未成年であったため軍隊より葬儀に出席するよう外出許可が出て、8月15日正午、天皇の玉音放送を聞いたのは汽車が名古屋駅に止まった時だったと、懐かしく語っておりました。そしてその日の内の夕方、大阪駅に到着し、ひどい空襲があったにも関わらず、阪神電車はしっかりと動いていて、自宅に無事到着できたそうです。それから、母一人(芳枝)、子一人(郁郎)で、戦前よりあった“梅谷畳店”を再開し苦難の末に経営者として頑張ってきたそうです。
★★戦後、日本人は猛烈に働いた!★★
わずか17歳で裸一貫焼け出された父・郁郎と祖母・芳枝。子供の頃、この二人の苦労話から徹底して教えられたことは、
「商売は、キッチリとお金を貰うまで、気を抜いたらアカン!」ということでした。私が知っている限りでも、とても親切にしてくれていた神戸所在の畳店の社長が、「郁ちゃん、ちょっと判子貸してンか」と言われたので貸したところ、5~6分の間に先方が持つ多くの借用書に押印され、私が高校一年生になるまで、土地家屋のみならず、家財道具が差し押さえられておりました。家には氷式冷蔵庫が在り、その中に冷やしてあるビールを飲む時に、父は、「ちょっと、お借りします」と冗談を言ってから取りだしていたのをよく覚えています。(現在は、冷蔵庫まで差し押さえされることはないようです。)このように塗炭の苦しみを味わってきた父でしたので、音楽の道を目指す私が気に入らなかったのでしょう。それが原因で私がレコードを買ったり、ブラバンに入る時など大反対をしたのだと思います。
さて、軍隊から帰ってきた父(22歳)は近所に住まう少女・洋子(16歳)と惹かれ合うようになり、結婚を決意するのですが、周囲から「まだ若すぎる!」という事で、母は、兵庫県播磨の社町にある同業の森本畳店へ2年間“奉公”に出されました。ここの社長・森本忠雄さんはとても優しい方で、しっかりと仕込まれて18歳で西宮に帰ってきました。そして、父24歳、母18歳でめでたく結婚し、翌年私が生まれたのです。私の名「忠洋」は奉公先の社長から「忠」の字を頂き、母の名洋子から「洋」を貰って名付けたそうです。名付け親は、母の奉公先の森本社長でした。
この頃の日本は、戦後の焼け野原からの出発でしたので、ひ弱なことを言っているとすぐにあらゆるものが駄目になってしまいます。物質的には何もなかったですが、町の結束と近所の連帯、そして人間の情だけは盤石でした。地域の人々は皆助け合い、我が父も若い頃から今も住んでいる我が家の地域(今津大東町)の町会長を務めるなど地域貢献に勤しんでおりました。父の言、
「あの頃は、畳を作れば直ぐ売れた。でもワシもアホやった、判子がどれだけ大切かを知らんかったので、安易に渡してしもうた。そして、たった5分間に大借金を背負うハメになってしもた。そして、返済に12年も掛かってしまった。そやから世の中で一番怖いのは“借金”や!」と、耳にタコができるほど幼少期に聞かされました。それが私の潜在意識にしっかりと定着しているのでしょう。私は欲しい物があっても、我が父の言いつけ通り“借金”だけは、未だしたことがありません。
母に聞いた話ですが、私がまだ乳飲み子の時、我が父は商売に行き詰まった所為でしょうか、私を母に預けて、自分一人岡山県の瀬戸内海鞆ノ浦(とものうら)近くの阿伏兎(あぶと)観音まで失意の内に行ったようです。多分、自殺を考えていたのかも知れません。生前の父から聞いた話ですが、その参道に古書の店があり、そこに平積みにしてあった一冊の書物に目が留まったそうです。何気なく手に取ったその本(愛媛出身の思想家:橋本徹馬著)に生きるヒントを教えられ、そこに活路を見出し、意気揚々と家に帰ってきたそうです。そして若妻に、自分の愚かさを告げ、次の日から猛然と自社の畳店の仕事に打ち込んだそうです。
その時の事を今は他界して15年になる父でしたが、少しお酒が入ると懐かしそうに、そして、愛おしそうに語ってくれる母(91歳)が今も健在です。
お父さん、お母さん、ありがとう! 忠洋は、心より感謝しています。
この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/