M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第673号(2018.3.12~3.18)この世は全て催眠だ(414)〜成功の裏には、絶妙のコンビネーションあり!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(413
成功の裏には、絶妙のコンビネーションあり!

 西宮市今津地区……そのガラの悪さを表現するのに、北から阪急今津線に乗って上品なお嬢様達が、阪急今津駅で阪神今津線に乗り換え、武庫川(女子)学院へ通うとき、家族から
 「あの駅では絶対に地域の人達と目を合わせたらいけない。どんな因縁を付けてくるか分からないから
と言われていたと聞いたことがあります。何度も申しますが、もちろん私が中学生の頃(東京オリンピックの頃)の話です。
 確かに、言葉は粗いし、行動は雑、その上、我らが今津中学校を中心として、西側、南側には大阪ガスのガスタンクが合計3つ。その間に西宮市の施設、ゴミ焼き場と屎尿(しによう)投入口(合わせて終末処理場)があり、まだ水洗化されていない時代は、バキュームカーが学校の前を頻繁に往来しておりました。そして、北側の今津駅周辺は、映画館、パチンコ店、麻雀荘、居酒屋、飲食店が林立し、その周りに阪神市場、阪急市場があり、時々、阪神電車の踏切では、生活苦から飛び込み自殺が起きていました。阪急電車は今津駅が今津線の終点なので、飛び込んでも死にきれないのでそんな事件は起こらなかったようですが、阪神電車は猛スピードで特急電車が快走するので、大阪の福島駅に次いで自殺者が多い所と駅員に聞いたことがあります。
 ここに、ゴンタクレで叔父さんに挑戦的にピアノを習い、徴兵で日本陸軍砲兵隊に入隊。そして、満州に派兵され、そこで即席吹奏楽団を結成したのを切っ掛けに、ブラスバンドの魅力に開眼した我らの得津武史先生が、中学校の教員として赴任してきたのです。荒くれの中学校教員とガラの悪い今津の街の取り合わせは、文字通り「水魚の交わり」で、俄然モティべーション(やる気)を感じました。
 「こいつら悪ガキも、扱(しご)いたら使い物になるはず!逆に、ここが芦屋とか夙川、大阪の帝塚山やったら、音楽が出来て当たり前と言われる。一丁やったろ」
と思ったときに、先任の鈴木竹男先生が西宮北口に本拠を持つ阪急ブレーブスのホームグランド、西宮球場の中に同居していた阪急少年音楽隊の隊長として赴任され、全てのタイミングがここに揃ったのであります。

★★世界一のフルーティスト・ランパル先生!★★

 私が中学1年生の10月(東京オリンピックのあった頃)のことです。フランスから世界一のフルーティストと謳われたジャン・ピエール・ランパルが来日し、日本全国でコンサートを行いました。その時、我が今津中学校吹奏楽部にも一枚だけ招待券が送られてきました。
 11月初旬に全日本吹奏楽コンクールが香川県高松市で開催されるため、3年、2年はその追い込み練習に余念がありません。そこで、幸運にも私1年に招待券が廻ってきたのです。コンサート会場は大阪中之島にあるフェスティバルホール2000人の大ホールにもかかわらず、フルートとピアノだけの演奏です。そして、何と座席は前から3列目のど真ん中!ランパル先生と目が合う距離です。
 プログラムは今も鮮明に覚えています。日本を代表するフルーティスト吉田雅夫編曲の「さくら変奏曲」に始まり、フルートの華麗なテクニックを生かした小品がならび、最後はリストの弟子でフルーティストのアルベルト・フランツ・ドップラー作曲「ハンガリア田園幻想曲」。
 この2時間のコンサートの間は、私は夢見心地……と言うよりも、休憩時間も椅子から立てないほどの脱力と興奮で、今まで、小学校のスペリオパイプ(縦笛)の延長くらいにしか考えておらず、時々「つまらない楽器に当たってしもたなぁ」と愚痴をこぼしそうになったことが、その華麗な音色とテクニックに圧倒され、恥ずかしく思い出されます。
 今振り返ると、このランパル先生のコンサートと出逢っていなければ、私は今のように音楽家になっていたかどうか、多くの師との出逢いを生かせたかどうか分かりません。ここでも私の人生を大きく揺るがせるような出逢い……「邂逅」が起きたのです。
 今まで持っていたフルートに対する観念は、失礼ながら先輩達(中学生程度)の演奏しか聴いたことがなかったのです。たったフルート1本で2000人の会場を興奮の坩堝(るつぼ)と化すことが出来る。そして、私も感動の中に居て、今までの自分ではない、この世に生まれて初めて体験をしているのです。
 私は、子供の時よりシャイでアカンタレ、引っ込み思案の暗い人間でした。その私が、コンサート終了後、この神のような音色を醸し出すランパル先生に逢ってみたい、出来れば握手をしてもらいたいと思ったか思わないか定かではありませんが、夢遊病者のように、楽屋口からこっそりと忍び込み、控え室の前まで行ったのです。
 私にとって、これが生まれて二番目に湧いてきた“勇気”でした。
(一番目は、先般書きましたように、父親との対決の中で体験しました。)

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/