潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?
この世は全て催眠だ(663)
こんな素晴らしい奴らと、殺し合いをしてたんやろか
終戦後間もなく、得津先生は自分の音楽(ピアニスト)の特技を生かして進駐軍周りをして糊口を凌いでおりました。
その時、自分達のメンバーに黒人兵ですこぶるテナーサックスの巧みな米兵がいて、一緒に演奏したらこれが信じられないくらい凄かったそうです。得津先生はとても気さくな性格でしたが、シャイな性格も隠せないアンバランスなところがあり、乗りに乗った演奏時でも、何処か真面目なところがあり、それでいて身体全体から感動が溢れ出ているのです。
この黒人兵との出会いは先生に音楽の素晴らしさを感じさせ、またその後の吹奏楽の指導に大いなる影響を与えたのです。「ワシはな、生まれて初めて男同士恋人のように抱きあったんや。あの黒い電信柱みたいなアメリカ兵とな」
と、酒が入ると遠くを見つめてその当時のことを思い出しながら話してくれました。
また、得津バンドのテーマソングは“軍艦マーチ”で、ステージのオープニングは、いつもこの曲を高らかに演奏してスタートします。アメリカ軍の中で、日本の代表的軍歌を演奏するのですから勇気というより、「無謀」といわざるを得ません。
すると兵隊の一人が“ストップ”を掛けてきたのです。「止めろ」というと思いきや、「オレにも吹かせてくれ」と自分のラッパを持ち出して、朗々と吹き始めたのです。彼は“軍艦マーチ”を覚えていて一緒に演奏するのかと思いきや、彼が吹いている曲は、“碇を上げて(Anchors Away)”でした。
この曲は、言うなればアメリカの“軍艦マーチ”。
「この二曲を同時にぶっつけて演奏したら、絶妙にアンサンブルするのが不思議やった。これは素晴らしい音楽の日米戦争やったなぁ。なんで、こんな素晴らしい奴らと、この間まで殺し合いをしとったんやろか」
と、懐かしそうに虚空を眺めていた先生の顔を今もハッキリ思い出します。そうです、音楽に国境はないことをシミジミ感じたひとときだったのです。
★★酔眼朦朧(すいがんもうろう)と街をさまよう★★
得津先生は、言葉の全く通じない同志が、音楽で完璧に話ができることに気付いた瞬間でした。
「音楽に国境はない。音楽の力は凄いな。そして、軍艦マーチはやっぱり名曲や!」
こうして進駐軍周りをしている内に、自分が“教師”であることを忘れ、それを咎めた大阪南田辺小学校の校長と口論になり、挙げ句の果てに手が出てしまい、免職処分となってしまいました。
その時の先生は、昼間っから安酒をあおり、自分の境遇を忘れようとしていました。そして、今だから書けますが、その頃バンドマンの間で流行っていた覚醒剤“ヒロポン”にまで手を出したといいます。そんな時、たまにピアニストの仕事が舞い込んできても、上手くピアノを弾けるわけがありません。指が縺れてしまい、イライラ感が頂点に達したとき、拳骨で鍵盤を叩いてしまい、即刻クビになってしまいました。
そして、家にあった妻(彼女もピアニスト)のピアノをアイスピックでメチャクチャに突き刺してしまい、これが引き金となって離婚!
こんな荒れ狂った先生に数ヶ月後、小学校の専任音楽教師の話が舞い込みました。場所は、西宮では最も上品な人達が住む夙川小学校。昭和27年のことです。先生の回想!
「あのまま、ジャズピアニストを続けていたら、何処か場末のストリップショウの伴奏屋にでもなってたやろな。よし、この辺りが潮時や!」
と思いきってバンドを解散することにしたそうです。
それから、小学校の音楽教師をしながら、放課後にはママさんコーラスの指導をしていたのですが、この夙川という地区は、西宮でも超上品な街ですので、彼女たちに、
「アホカ!もっと気合い入れて歌え」
と怒鳴るわけにもゆかないので、“肌が合わない”という理由で辞退しました。
こんな肌の合わない街で、得津先生が仕事に身が入るわけがありません。そして、また酒に手を出し、西宮の繁華街をうろついていて、思ったことは、「ワシは何のために生きているのや」という人生の悩みでした。その頃の先生は、「酒は愉快に飲まなあかん」という本来のポリシーは完全に失せてしまい、酔眼朦朧(すいがんもうろう)と町をさまよっていたのであります。
この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/