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今週の喝 第920号(2023.01.09~01.15)この世は全て催眠だ(661)〜遺言は、「ワシが死んだら軍艦マーチで送れ!」〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(661
遺言は、「ワシが死んだら軍艦マーチで送れ!」

 今も海上自衛隊の新しい軍艦が出来ると、必ず海上自衛隊音楽隊による「軍艦行進曲」で進水式が行われます。
 この曲は明治30年、鳥山啓の作詞に鹿児島出身の軍楽隊員であった瀬戸口藤吉が作曲したもので、勇壮なメロディーは多くの兵士を鼓舞し、戦時中は戦意高揚を目的に頻繁に演奏されました。いたずらに多くの兵士を死地に追いやった経緯を持つ楽曲であったため、忌まわしい軍国主義の象徴とも言われたりしましたが、戦後はその戦意高揚の威力がパチンコ屋で活用され、負けても負けてもパチンコ玉を買って挑戦させる絶大な効果を上げました。
 しかも、この行進曲が傑作である故に、第二次世界大戦後の戦勝国であるアメリカの軍楽隊が好んで演奏したり、日本を象徴する曲としてサミットの公式な迎賓曲として演奏されたりするなど、戦後78年を迎える現在でも、とにかく物議をかもしながら存在感の衰えない楽曲です。
 私はそのメロディーを聴いたことはないのですが、当初、作曲家の瀬戸口藤吉は、この曲をワルツ(3拍子)で作ったそうです。こんな問題付きの軍艦行進曲を、我が師、得津武史先生が事ある毎に好んで演奏したのは、彼が青年時代を過ごした戦時下に、時代と目的を超越して少年ブラスバンドの意気を昂揚させる、ストレートで豪快な威力を持っているからでした。
 また、後日お話ししますが、日教組が絶大な権力をもって学校教師達に圧力を掛けていた時代に、
 「こんな辛気くさいことやってられるかい」
と、自ら進んで日教組を脱退し、彼等日教組が集会を開いている間、得津武史先生は、その集会には入れないため、運動場に生徒達を集めて、自分が仕込んだ吹奏楽部員達でコンサートを開いていました。そんな時も第1曲目は「軍艦行進曲」からスタートしました。私もその一員として今も「軍艦行進曲」は潜在意識に染み込んでおります。そして、先生の口癖は「ワシが死んだら軍艦マーチを葬送行進曲にして送れ!」でした。

 

★★得津軍楽隊長誕生!★★
 さて、話を元に戻しましょう。ゴンタクレだった先生は、厳格な音楽教師の叔父の家で育てられました。悪いことをしたら逃げ場所としてピアノの下を選んでいたのですが、そこに習いに来る女学生達の演奏を聴いて、
 「あれくらいの演奏やったら、ワシにもできる!」
と意気込んで大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に入学します。そこにはギネスブックにも世界最高齢の指揮者として載っている、大阪フィルハーモニー交響楽団の創始者、故・朝比奈隆先生がおられました。当時はエアコンという快適な装置はありませんでしたので、夏の練習場などはむせ返るような熱気で意識朦朧とする環境でした。そこで窓を開けてベートーヴェンなどの交響曲を演奏すると、無知蒙昧な庶民は、警察に
 「敵性音楽をやっている」
と苦情を言う始末。そこで、朝比奈先生は換気のために窓を開けるときは、決まって「軍艦マーチ」を演奏したそうです。その血が先生の潜在意識に宿っていたのかも知れません。
 そして、音楽学校を卒業し、大阪市立南田辺小学校に音楽教師として赴任し、その初月給の日(昭和14年春)に赤紙(召集令状)が届き、陸軍に入隊することになったのです。入隊先は、陸軍の中でも一番ガラの悪い、馬で大砲を引っ張る信太山(しのだやま)野砲兵第4連隊。そして初期訓練が終わるやいなや、関東軍東部国境警備の一兵卒として満州に派兵されました。
 ある日のこと、そこの指令であった西沢連隊長に呼ばれ、
 「得津一等兵、お前は音楽学校出身だったな。そんなお前に特別任務を与える。よいか、世の命令は天皇陛下の命令である。可及的、速やかに軍楽隊を組織編成せよ。そして、お前が指揮を執れ。かかる辺境の地で兵士達の士気を鼓舞するのは、音楽以外にはない!連隊記念日までに間に合わせよ」「ところで、貴様は音楽学校では何の楽器をやっておったのか」
 「ハイ!ピアノであります」
と返事をした途端、西沢連隊長からフォルテッシモのビンタが飛んできたそうです。得津先生も“ピアノ”と応えただけでビンタをはつられてはたまりませんので、
 「何がいかんのでありますか?」
と、問いただしたら、その回答は、
 「男がピアノとは、軟弱である!」
ということでした。連隊記念日までに残された時間は約一ヶ月。それまでに何とか軍楽隊を格好だけでも付けなければならない。先ずはメンバー集めから始めました。
 「トランペットはサーカスのオートバイ乗りやった日比野一等兵と青函連絡船の池田二等兵、サクソフォンはチンドン屋の塩崎伍長、小太鼓は村の青年団で指導員をしていた堀川上等兵、トロンボーンは写真屋の松本二等兵、そしてフルートは活動写真の弁士をしていた梅津一等兵」
といった具合に集め廻って何とか恰好だけはついたのです。連隊記念日まで、
 後一ヶ月!天皇陛下の命令やから、やるしかない。柳の枝を毎日毎日5,6本折って、シゴキにシゴイて何とか,“今演奏している曲が何か”が分かるようになってきたので、先生は、「丁寧な演奏はせんでええ!みんなボリュームで勝負や」
と檄を飛ばし、何とか軍楽隊長としての初仕事を終えたと後年、酒を飲めば懐かしそうに語っていたのが瞼に浮かびます。

 

  この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/