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この世は全て催眠だ(660)
“天国へのマーチ”は何故書かれたのか
皆さん 明けましておめでとうございます。
今年も張り切ってこのコラムを書いて行きますので、末永く読んで下されば幸いです。さて、先日
「先週のこのコラムを読んで、書店に問い合わせましたが既に廃版のようです。中古本で手に入れるのも簡単とは思いますが、それまでに得津武史先生の様な方が、どのような経緯で中学校の音楽教師になられたのか教えて下されば幸いです」
と、先回の“今週の喝”を読まれた方で、吹奏楽に関係のある方から、このような問い合わせがMailでやって参りました。
私たち今津中学を卒業した者から見れば、何の違和感もないのですが、先生の姿や指導法を遠目に見て、また世間のうわさだけで得津武史像を想像するのは至難の業です。そこであの様な希有な性質の指導者が誕生したのかを少しご紹介しましょう。
とても不思議なことですが、この“天国へのマーチ”を著した西谷尚雄氏は、得津先生とは一面識もない方です。先生の死後(くも膜下出血で亡くなられた後)、関係者や卒業生の取材によって書き上げられたものです。書き出しは、著者の西谷氏が腎臓癌で入院され、その夢枕に先生が現れ、
「あの本はいったいどうなっとるんや!?」
という催促から始まります。西谷氏は、広告代理店を退職後、サラリーマン生活の疲れが出て重篤な病を患いました。そんな時も 「どないしたんや、ワシの本ができる前に、お陀仏になったらあかんぞ、しっかりせんか!」
と怒鳴られたそうです。
西谷氏が私どもに取材に来られたときに伺ったのですが、いくら世間には名物先生として知られていても、一面識もない人の伝記を何故書くことになったのかと、逆インタビューをしたら、
「この話は“我が道を行く”というタイトルで映画化される予定で、1989年の東宝映画ラインアップに発表されたもの」
という経緯でした。主役も西田敏行さんにほぼ決定と言うところまで決まっていたそうですが、残念なことに制作側の事情でペンディングになってしまったそうです。
★★「あのくらいの演奏やったら、ワシにもできる!」★★
それでは、得津武史先生の前半生をお伝えしましょう。先生の口癖は「ワシが死んだら、軍艦マーチで送れ!」
でした。実際、先生が亡くなられたときには、葬式で「軍艦マーチはないやろ」と校長以下学校関係者は、首を縦に振らなかったのですが、霊柩車の御出棺クラクションが「パーン!」となると同時に、楽器を持ってきていたトランペットの卒業生の一人が、やにわに楽器を取り出し軍艦マーチのイントロを吹き始めたのです。それが嚆矢となって参列していた者みんながそれに習って楽器を取り出し、瀬戸口藤吉作曲のあの有名なメロティーを吹き始め、やがて100人以上の大合奏となって出棺を見送りました。
「守るも攻めるも くろがねの 浮かべる城ぞ たのみなる。
浮かべるその城 日の本の 御国の四方を守るべし……」
この時は、西宮中の中学の卒業生がこのアンサンブルに加わりました。(もちろん、私も)そして、霊柩車が火葬場に着くやいなや、居上博とファインメイツ(大阪のジャズバンド)に入団していた卒業生のトランペット、金子君と三井君のデュエットで今津中学校の校歌“のぼる朝日”で迎えられました。私は火葬場でのコンサートは初めてです。あの悲しい響きは今も耳に残っています。
得津武史先生は、陸軍に召集されたにもかかわらず、大の「軍艦マーチ」のファンでした。当時は日教組が権勢を振るっていた時代でしたが、平然と運動会などでは「軍艦マーチ」を演奏しておりました。
得津先生は、大正6年(1917)12月10日に和歌山の温暖気候に恵まれスクスクと育ちました。しかし、とてもゴンタで有名な少年だったようです。嫌いな食材は「かしわ(鶏肉)」……その成り行きを尋ねたら、
「子供の頃に友達に運転させて、自分は自転車の荷台に後ろ向きに乗って、鶏の首に縄を掛け引っ張り回して遊んだ所為で、大人になってから「かしわ」が全く食べられんようになった。かわいそうなことをしたもんや」
とつぶやいていました。学校の先生に怒られると、必ず隠れるのが音楽教室のグランドピアノの下だったそうです。また、先生の叔父は東京音楽学校(現、東京芸術大学)出身の厳格な方で、悪戯をすると常にこの叔父さんにこっぴどく叱られ、座敷牢のような部屋に閉じ込められました。日曜日になると近所のお嬢さんがピアノを習いにくるその演奏を聞きながら、
「あのくらいやったら、ワシでもやってやる!」
と音楽の道への第一歩を踏み出したのです。
この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/