M&Uスクール

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今週の喝 第897号(2022.08.01~08.07)この世は全て催眠だ(636)〜3万枚の大台に乗った!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(636
3万枚の大台に乗った!

 さて、作詞の高田直和先生からの提案、
 「梅忠さん、この曲が3万枚の大台に乗ったら、西宮市民会館で小林幸子を招いて“若い演歌は今燃える!”と題してステージを開きまひょ」
1979年(昭和54年)の3月25日のレコード業界の決算並びにオリコン(オリジナル・コンフィデンス:その週に売れたレコードを順位別に知らせる業界情報誌)の売れ枚数のトータルを見ると、売上げ枚数30025枚。そして売上げは止まることを知らずドンドン伸びているようで、第一プロダクションもレコード会社のワーナーパイオニアも目を丸くし、この頃から急に言葉遣いも頗(すこぶ)る丁寧になり、サッチンにも「増山」というマネージャが付き、「関根」という付き人(“カバン持ち”で後に小林幸子が作る「幸子プロ」の社長になる)がスタッフとして働くようになりました。また、後に増山マネージャについては話さなければなりませんが、大変なことをしでかします。
 何はともあれ、AB面Changeから、わずか2ヶ月足らずで3万枚の大台を突破し、演歌界のみならず、流行歌全般でも業界で注目の的となり始めました。当時はラジオのリクエスト番組などが花盛りで、はがき枚数も尋常ではなかったと聞きました。
 そして、西宮市民会館を借りて、お世話になった方々を招待し、“若い演歌は今燃える”と題して小林幸子と梅谷忠洋をメインに、「おもいで酒」のステージが開かれました。
 ところが、この晴れの日に、新しく就任した増山マネージャーがイチャモンを付けてきたのです。
 「私は今迄の経験からサッチンを大スターにする使命を会社から授かりました。ですから、これからはどんな小さなステージ、またスナック廻り全般、そして(何処から漏れ聞こえたのでしょうか)レコード販売から有線放送廻り総てを私を通して行って頂きます」
と、雰囲気が盛り上がっているステージの始まる前に偉そうな顔で上司の佐伯総合マネージャーがいるにもかかわらず、大見得をきってきたのです。 

 

★★晴れの日の嫌な思い出★★
 増山マネージャがサッチン専属になるまでは、気軽に電話などで交流していたのですが、それも制限してきたのです。佐伯さんは
 「気にしなくて良い!」
と言ってくれるのですが、この業界の猛者(もさ)の増山氏は、恫(どう)喝(かつ)めいた言葉を私だけではなく、小林幸子にも高圧的に掛けていたようです。後にサッチンに聞いたのですが、増山氏が立てた売り込みスケジュールは、24歳の小林幸子の肉体の限界をゆくものでした。4月から紅白歌合戦が終わる9ヶ月間に、彼女は15足のパンプスを履きふるしたと、淡路島に向かうフェリーの中で、豆だらけの足を見せていたのがとても印象的でした。
 彼女が増山マネージャーに「疲れた」「体が辛い」等愚痴をこぼすと、
 「またハトヤのストリップ小屋の仕事を入れるぞ!」
と言った脅しも掛けられ、
 「もう一度“苦節15年”(当時の流行語になりました)を味わいたいのか?」
と脅されたといいます。
 当時の私は子供時代の「アカンタレ忠洋」が色濃く残っていましたので、妖怪(業界)人間・増山氏の言いなりになっておりました。
 さて、昭和54年4月15日桜も散り終わったうららかな春の日に“若い演歌は今燃える”のステージが西宮と近隣の名士の皆さんの参加で挙行されました。
 客の中には当時の市長教育長も列席して下さって、それはもう華やかな会になりました。
 しかし、この時ちょっとした事件が起こりました。それは我が師・宇宿允人先生はじめヴィエール室内合奏団のメンバーにも招待状を送り、全員来てくれたのですが、私が先生に挨拶に行こうと受付まで行ったとき、宇宿先生が大きな声で受付の担当者と小競り合いをしているのです。後で分かったのですが、先生の事をあまりよく知らない受付担当者の言葉遣いが少々礼に逸したものだったのが原因でした。そしてもうすぐステージが始まると言うときに、詳しい訳も分からず、言葉面で「申し訳ありません」と私が謝罪したのが、先生の逆鱗に触れてしまったのです。先生は持ってきて下さった祝儀袋を「くれてやる!」と受付の人に投げつけて、会場内に入って行かれました。オケのマネージャーである盛田貞代さんに後で教えて貰ったことは、先生にだけは特別に「お出で下さい」という丁寧な招聘をしていなかったことが気に入らなかったのだそうです。受付の言葉遣いは、トリガー(引き金)に過ぎなかったのです。
 「人間(じんかん)万事塞翁が馬」を身を以て体験した嫌な思い出です。その後、先生の機嫌は当分直る気配がなく、いくら謝罪しても許して貰えなかったので、高田直和先生や我が親父にオーケストラを辞めるように説得され、一時的に宇宿先生の下(ヴィエール室内合奏団)を去ることになりました。
 今から考えると、これも私が歌のヒットに酔いしれて周囲に対する気配りを疎かにしていたのが原因でした。
 そして、ステージ終了後の打ち上げ会が終わるか終わらないかという時に増山マネージャーはサッチンを連れて、近隣のスナックへレコードのキャンペーンに出かけました。業界の厳しさを芯から知っている人だと、自分の不甲斐なさと照らし合わせて気合いを入れ直した一日でした。

 

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/