M&Uスクール

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今週の喝 第860号(2021.10.11~10.17)この世は全て催眠だ(601)〜欲望を否定せず生を全うしよう〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(601
念願は人格を決定す。継続は力なり!

 我が師・宇宿允人先生は、一杯入ると口癖のように……
 「真の音楽とは人生の悲しみを謳(うた)うものだ。音楽とは、“音を楽しむ”と書くけれども、人間の生と死のように、奥深いところに真の音楽があるんだ。モーツァルトやベートーヴェンのような偉大な作曲家の心は、普通の人より、より深く人間の生と死を見つめていたに違いない。そして彼等は悲しみ、苦しみの中から、素晴らしいメロディーや和音を紡ぎ出し、楽譜という文字で綴っていったんだよ。その結果が奇跡のような作品だ!自然の美と、儚(はかな)さ、力強さで奏でる音楽は、聞く人の心に共鳴して涙を誘う。苦悩や苦痛に耐え、流される涙ではなく、苦しみや悲しみが浄化され、安らぎをおぼえる感動から生まれるんだよ」
 この話を、私は千回以上聞きました。それこそ潜在意識にシッカリ透徹しています。とは言っても、23歳の私には、師の教えをそれこそ法然上人に入門したての親鸞のように、付き従ってゆくのが精一杯でした。
 私が幸運(?)だったのは、音楽に魅了される心を持ちながらも、生涯の仕事としてそれを選ぶ道を絶たれていたところにあると思います。長男である私は、我が父・郁郎からしてみれば、家業の畳屋を継ぐように育て、あらゆる手立てを以て、方向付けしようとしたのが、“アカンタレ”の筈の息子が、音楽に接する度に情熱を燃やし、父の思惑とは真逆の方向に勇気をもって進んでゆくのです。挙げ句の果てには、高校の成績が後ろから数えた方が早いところまで下落し、私自身が「何と頭の悪い自分か!」と思うほど、勉強が分からなくなってしまい、周囲から見たら“完全なアホ!”を経験しました。
 そして、父の会社の手伝いをする最中に脳挫傷を伴う交通事故に遭い、逆行性健忘症の中でも、ベルリオーズ「幻想交響曲」の二楽章のあの美しいワルツのメロディーが流れていたのです。そんな“情熱”そして“感動”と呼ばれる心根が、今から考えると不思議な「邂逅」のエネルギーとなって19歳の夏に我が師・宇宿允人先生とのめぐり逢いに至り、運命が私を“念願の方向”に導いてくれたのです。

 

★★今度は、“我が妻”を紹介したい★★

 

 このようにして私は「音楽の道」に誘(いざな)われたのですから、有無を言う暇(いとま)も選択肢も優先順位も何もありません。只々、師の言うことを聞く事だけが私に許された道でした。これが人の“在り方”と合致して、人間同士が引き合うエネルギーが生まれたと私は考えます。
 系譜とは恐ろしいもので、我が師・宇宿允人先生近衛秀麿先生邂逅し、只々その出逢いに疑問を抱かず付き従いました。
 多くの人間は、自分が納得してから、もしくは損得の計算の上で「出逢いの選択」を無意識にやってしまいます。しかし、これでは「矛盾と打算」が鬩(せめ)ぎ合い、到底“純粋な心”など湧きません。それは、幼稚な心で本物や偽物を見分けられる筈もないのに、その時代や制度の上で、自分自身が「みんなが支持している人達」を“是”と思い、そこに付き従おうとするミーハーの感性そのものです。これは絶対におかしな論理であり選択です。
 喩えるなら、釈迦の弟子が多くいても、シッカリとその精神を踏襲できたのは10人(十大弟子)で、その下に500人の宣教師的役割をした羅漢(らかん)(人々から尊敬される高僧;五百羅漢)がいて、その下に悩みや苦しみから逃れたいという動機で集まった信者達がいる仏教のヒエラルキー(階層)のように、同心円を為しています。同心円の中心に位置する人と、外側を取り巻く人間の差は、先ほど言った「矛盾と打算」を払拭し、自分自身を無心にまで押し上げて師に仕えたかどうかだと私は思います。こう言うと、
 「無心に付き従って、その師が偽物だったときは……?」
などと、思う人も現れるでしょうが、それは心配する必要はありません。古来より「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」(白檀香(びゃくだんこう)を取る木は、芽が出た時からその香りがする)のことわざ通り、若木はそれ自体が将来の香りを放ちます。その香りとは「心のバイブレーション」のことですから、師との邂逅は自然の成せる業なのです。
 人生の中で、素晴らしいめぐり逢いだと思ったものが、やがて憎しみすら抱きながら別れてゆくということは決して珍しい事象ではありません。私は、そのような別れの原因をシッカリと究明した結果、そこには「矛盾と打算」が蔓延っているという結果を得ました。その者達は、「己の低我(楽得)に合致しているかどうか」という無意識が判断基準だったのです。

 さて、話を師匠のルーマニア客演旅行に戻します。現地の音楽評論誌に、
 「地球の裏側から来た小さな東洋人が、昨夜、偉大な感動をもたらした」
と評され、終演後のパーティーで、我が師は
 「皆さんの国のオーケストラの技量は素晴らしい。彼等に助けられて今宵のコンサートは成功しました。しかし、まだ彼等と私は“恋人”の関係です。今度是非、皆さんに“我が妻”を紹介したいのです」
と言って、私たちヴィエール室内合奏団をアピールしたところ、即座にその計画が動き出しました。
 宇宿先生が、“恋人”と表現したのは、「どこか気を遣いながらの丁寧さ」で接する。“我が妻”とは、「余分な気配りを排除して思い切った表現や行動ができる」という意味です。昨今では“我が妻”すら、気を配らないと手足のように動いてくれることはありませんが……。(>_<)

 

    この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/