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今週の喝 第828号(2021.3.1~3.7)この世は全て催眠だ(569)〜レコードの「プチプチ音」は、雑音なのか……?〜

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この世は全て催眠だ(569

レコードの「プチプチ音」は、雑音なのか……?

 今し方TVのニュースで、「最近の若者は、音楽をレコードで聞き、レコードやプレーヤーの売り上げが10倍に増えた」と報じており、私もとても懐かしくなり、21歳の時に録音した私のフルートの音を楽しみました。
 直径30㎝もあるのに、大体20分程度しか録音できないのですが、(良い意味で)ボヤーッとした温かみのある音色は、本当に親しみがあります。しかし、いちいち針を下ろさなければならないという面倒くささは否めませんが、そのニュースのインタビューでは若者達が、その面倒くささである音楽を聴くまでの行程が楽しいのだととても嬉しそうに話していました。
 私は、ディスクジョッキーをしていた30歳初頭に初めてCD(コンパクトディスク)の音楽をNHKのスタジオで聴いたとき、その透き通った録音と、74分という長い録音時間に感動しました。(この時間は、世紀の大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンのベートーヴェン第9交響曲が入る長さと、ソニーがカラヤンに忖度して決めました)
 反面、レコードは音が不鮮明でダメなもの、古いものという観念が一気に広がり、私自身がデジタル化の波の先頭に立った気分でした。
 しかし、現代の若者は私とは逆の感性の人達がいるのです。そして、私も再びレコードを聴いたところ、なるほど温かみのある音に感じました。レコードは針を盤に落とした途端、プチプチと音がしてその雑音がイヤでイヤでたまらなかったのに、若者達は「あの音がたまらない魅力です」と言うのです。私もそのように思って聞くと、プチプチ音から私の青春時代の雰囲気と時間、そしてその頃の香りが伝わってきました。
 そして、この前の心華寺でのSchoolの瞑想時に、私の作曲した「自然の舞」をCDで聴きながら変性意識に浸っていたとき、途中でCD面の汚れから音飛びを起こし、瞑想が台無しになりました。そんなことも手伝って、昔のレコードへの郷愁がより一層深まりました。
 私たち人間は、正しく“固定観念”で生きていることを、再確認する出来事でした。良い悪いは自分の観念の為せる業で、真の良否は、先回の文章で示した「感動と歓びを周囲の人々に振りまくこと」だと、思いを巡らせる事象となりました。

 

★★「苦」に敢然と立ち向かおう!★★

 さて、今日から3月です。私が21歳のこの季節は、我がマエストロ・宇宿允人先生から「カール・シュターミッツ作曲フルート協奏曲ト長調」のレコーディングを拝命し、死に物狂いでその練習に没頭していたことを思い出します。いやはや、本当によく練習したものだと思います。大体、1日に14時間はフルートの練習に費やしていました。
 4月には、尼崎文化会館(現:アルカイックホール)での実況録音(観客を入れた本番の録音)ですから、やり直しのきかない一回こっきりの演奏です。本来なら恐怖心が先立つのでしょうが、私は師匠・宇宿先生をご本尊のように感じておりましたので、上がるとか怖いとかの感覚は微塵も湧いてきませんでした。まさしく、法然上人と親鸞上人の関係に近い信頼の極致と言っても過言ではない心境でした(これは現在も同じです)。
 先生は、
 「ステージには、魔物がいるね。自分の意思が砕け散り、指も息も眼も心もバラバラになり、思いも寄らない方向に勝手に歩み出すから癖が悪い」
と、自分の体験も含めて演奏者の宿命である「舞台」を語っていました。しかし、もう一方では、
 「その魔物が一度(ひとたび)自分の方を向いてくれると、今度は思いも寄らないような爽快な気分になり、今までにない演奏が出来たりする。だから、その魔物とは自分の心の中に住んでいるんだよ。《魔物》と言えば悪く思うだろうが、それは自分の演奏に味方するかどうかで我々が勝手に判断していることだから、言い方を変えれば《神》だろうね。自分ではどうにもならないのだからね。ま、それを魔物と感じるかとするかは、如何に真摯に音楽に取り組むかという心構え一つだと思うよ」
と、にこやかに語っていたのがまるで昨日のように思い出されます。
 先ほど、私がレコードは古くCDは新しいと感じたのも、現代の若者がその逆に感じるのも、この魔物vs同様に、自分の観念がきめているのであって、その観念が心の波動(バイブレーション)となって、どれだけ多くの人々と連携し、「感動と歓び」を喚起するかによって本物と偽物に別れるのでしょう。
 だから、私はプロに引き立てて貰って未だ半年も経たない21歳のひよっこが何をすべきかを、その頃、練習終了後に徹底して求めておりました。そして、その回答は我が師からの学びの時期であるから、「自分の観念を総て打ち払い、師匠の耳目(じもく)となること」と結論付けたのです。後に、話を伺いましたが、我が師匠も同様に“近衛秀麿先生”のおっしゃることを理解するために「近衛先生の動向の基準は何か?それを分かるためには、自分の感覚が邪魔をする。それが気散の元だ」という思いに至ったと、懐かしそうに話していました。

 

     この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/