M&Uスクール

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今週の喝 第802号(2020.8.31~9.6)この世は全て催眠だ(543)〜吹奏楽部は体育会系か?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(543
吹奏楽部は体育会系か?


 私が28歳の時より、NHK大阪放送局で毎週金曜日の午後6時から「梅忠のサウンドボックス」という一時間のラジオ番組を担当していました。その時、リスナーの方(女性)から
 「よく、吹奏楽のメッカ・今津中学校の名物先生である得津武史先生の話をされますが、実際にその先生の下でスパルタ教育を受けた梅忠サンから、直(じか)に何が得津先生の魅力か教えて下さい。私なら、頭を天ぷら棒で叩かれるクラブに居続ける勇気はありません」
という質問が来たことがあります。ま、その日は偶然にもゲストの歌手の方が急な腹痛になり、その穴埋めをこのはがきの回答に当てよと中原ディレクターから指示があったことを懐かしく思い出します。
 その回答は、先回も書きましたが、「真の感動と笑顔を教えて下さった人」です。
 もちろん、コンクールという競い合いの世界での勝利感覚がもたらす“感動と笑顔”もあるのですが、それはほんの表面的喜びに過ぎません。得津先生自身が窮地に陥った場面を幾度も直近で見てきました。先生も弱音を吐き、「もう止(や)めじゃ!」と捨て台詞もいっぱい聞きましたが、そこから、それこそ火の鳥フェニックスのように再び挑戦してゆくのです。
 今も日本のアマチュア学生バンド(吹奏楽界)は、ステージコンクールにせよマーチングにせよ、非常に体育会系的です。このルーツ(震源地)は、とりもなおさず得津武史先生であることは明白です。しかし、現在の吹奏楽界の体育会系的指導は、伝説の得津武史の表面をなぞっただけのものだと私は思います。私が中学生の時も、日本全国から吹奏楽を指導する先生方が、多いときは一ヶ月に10人近く見学に来られました。そしてその結果、その練習方法(スパルタ教育)だけを真似て、芸術の中で最も情緒深いはずの音楽を、コンクールという競い合いの大会と呼応させ、粗っぽいものに変えたように思います。

 

★★共に泣き、共に苦しみ、共に笑う!★★ 

 得津武史を没後38年にして愛し続ける理由!……外から見る人は、とかく先生が生涯にあげた実績、17回に及ぶ全日本吹奏楽コンクール第一位、及びその審査方法が変更になってからの金賞獲得数に感銘を持って下さいますが、私は長年月共に生活をしたと言っても過言ではない体験から、先生のスパルタ方式は、自分に対する“叱咤激励”だと思っていました。今も、YouTubeなどで先生の出演したTV番組を観ることが出来ますが、そこには“覚悟”が滲み出ています。
 このように書くと、
 「自分に対する𠮟咤なら、天ぷら棒で自分の頭を殴れば良い」
という風な短絡的解釈をする向きも多いでしょうが、そこに、“責任”の二文字が横たわり、長年月「優勝」の栄誉を獲得してきた“結果”に、町の人達も、また高価な楽器予算を配分してくれた市教育委員会も、「優勝して当たり前!」の感覚に填まっていました。「優勝して当たり前」ですが、少しでも成績が落ちると白眼視の嵐です。新聞などには「吹奏楽の名門、今年は首位を逃す」などと、残念な風に書かれても、その内実は今の報道機関と同様に、その文章の裏に何かイヤなニュアンスを感じてしまうのです。もちろん、記者にそんな意図はないにせよ、当事者の感性とはそのようにいじけた面が必ずあります。
 私たちは先生の片腕(スタッフ)として、その恐ろしい“世間”に対し、何食わぬ顔で“毅然”としていてもらえる態勢を作ることに邁進しました。生徒のドタマを引っ叩くのも、昔人間の精一杯の愛情です。子供に制裁を加えたら、加えた側は下手をすれば恨みすら買います。しかし、多くの輩出された吹奏楽部員は、そんな心は微塵も湧いておりません。そこには、人間が最も人間らしい振る舞いと精神である「責任感」が溢れ、卒業してからも、成人してからも、いや、先生の目の届く範囲全てに、気を配り、いつも彼等と心を共にしていました。簡潔に言うと
 「共に苦しんだ仲間で、先生と生徒という立場故の天ぷら棒であって、その内実は、一つのことに力を合わせ、共に悲しみ、共に喜ぶ一体感」
が、今もあざやかに私の潜在意識に宿っています。つまり、没後38年であるにも関わらず、しっかりと私の心に生きているのです。余談ですが、私は毎朝目を覚ますと、得津武史先生、宇宿允人先生(没後10年)、宝塚歌劇団・内海重典先生(没後22年)、我が父・郁郎(没後12年)と私を今日まで育てて下さった方々に「おはようございます」と挨拶をすることから始めます。すると想像の中で、「今日一日、頑張れよ!」と声がどこからともなく不思議に聞こえてくるのです。私も音楽家の端くれですから、その先生方のその頃の音声のまま聞こえてくるのです。また、人生で行き詰まった時など、“相談”したこともありました。すると、不思議や不思議、摂理に合致した“見事な回答”が返ってくるのです。
 このように、苦を乗り越え、その一生に素晴らしい偉業を残し、我々後塵に𠮟咤・勇気・希望をもたらして下さるのが、尊敬の根源であり魅力の脊梁(心柱)なのです。私もこれら先輩に倣って、座して平和を感受するよりも、率先して切り込んでゆく尖兵のように活躍する生涯を歩みたいと思っております。

 

       この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/