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今週の喝 第799号(2020.8.10~8.16)この世は全て催眠だ(540)〜都合と事情で楽器は上達しない〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(540
都合と事情で楽器は上達しない

 音楽(ミュージック)に情緒共感性(エモーション)が無ければ、それはもう只のサウンドです。それも音程がピッタリと合っての話で、音程が悪ければ(音痴ならば)、聞いている者に不快感を与える“雑音”となります。
 ロックコンサートなどでは、その音量もさることながら、バンドのメンバーにスピリット(その音楽に対する情熱)があるからこそ、ファンは共鳴し熱狂の渦に巻き込まれてゆくのです。
 こんな当たり前のことも、いざ楽器を演奏したり、歌を歌ったりする側に廻れば、一番なおざりになります。歌も自分の身体が楽器ですから、そのコントロールは尋常ではありません。
 私も、12歳ではじめてフルートを手にして以来、Everyday exercise、Everynight exercise!を得津先生から叩き込まれました。夜も日も関係なく練習に励めというのですが、私たちはこれを、「エグいでー、エグいなー!」と言って、最も嫌がりました。「楽器を上手になりたいのに練習は嫌!」……こんな矛盾を克服できないでいる人間に上達はありません。逆説的に解釈すると、「凡人は練習をできるだけせずに上手くなりたい」というとても都合のよいことを考えているのです。
 従って、こんな感性を持つ凡人達に対して楽譜売り場には
 「一週間でフルートをマスター!」
などと書かれた教則本が売られていて、ついついそれを手にし、挙げ句は買ってしまうのです。誰が考えても、一週間で楽器がマスターできるはずがありません。これは消費生活センターへの告発ものです。実際に訴えた人がいたようですが、けんもほろろに「あなたに才能が無いから!」と言われ却下されたようです。
 このように、人間の根本にある性質=横着性の克服こそ、楽器マスターの極意であると私は考えます。

 

★★プロはドッペルゲンガー的見地を身につけている★★
 何故、練習が必要なのか?
その回答は、楽器そのものが自分の身体の一部となりきるまで、違和感なくなじませるためです。世間では「Walking dictionary」(生き字引)と呼ばれる人がいますが、まさしくそんな性質を持つ人は、自分とその事柄の区別がありません。それこそ自分と楽器が“彼我一体”になっていなくてはならないのです。だから「何か楽器を演奏してみたい」程度であれば、情緒やスピリットなど入る余地もありません。
 サンサーンスが子供向けに作曲した組曲「動物の謝肉祭」には、色々な動物の描写が音楽で為されていますが、その中に「ピアニスト」が含まれています。もちろんピアニストは動物ではなく人間ですが、ピアノを自分の手足のように一体化するには、それこそ一日8時間以上の練習が必要です。しかも、ウォーミングアップの指馴らし練習の「ハノン」という教則本だけでも、1時間以上の練習時間が必要です。それも「ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ」などと弾いていて全く楽しくない八分音符の連続です。これに耐えることは、比叡山の千日回峰行(10年間の行)の如くそれに挑む心がけが要求されます。それは、単純に時間との闘いです。サンサーンスはウイットたっぷりの“皮肉屋”でしたから、飽きもせず毎日毎日くる日もくる日も、ハノンを練習するピアニストを“動物並みだ”と揶揄し、謝肉祭(カーニバル)の一員として扱っています。それほどまでに、楽器を(習得ではなく)修得することは、至難の業なのです。決して“付け焼き刃”では出来ません。
 このように苦難を乗り越えて修得した楽器を、今度は人が感動するための演奏にもってゆかなければなりません。それは、自分が演奏しながら、同時に、観客となってその演奏を聴くというドッペルゲンガー的(二重人格的要素)感覚を身につけることで為されます。それは双方向から物事を観察する能力(ゲシュタルト的見地)ですから、常に自分自身の心は“冷静”に、しかし演奏は聴衆を巻き込むような“情熱”を持って……という超絶的な感覚が要求されるのです。

 宇宿允人先生との出逢いは、これらを完璧に修得された“権化(ごんげ)”との邂逅(かいこう)でした。プロとアマチュアの差を如実に見せつけられたのです。得津武史先生は、宇宿先生のレッスンの後、中華料理屋で、
 「梅忠、お前は出来てるよって、そのコツを教えてくれ」
と次の日から、朝5時半に私の家を訪れ、7時20分まで“指揮の仕方”を習得しよう(習おう)と必死でした。その一途な行動は、私に大いなる感銘を与えましたが、同時に「何かが違う!」と違和感に襲われました。2週間ほど経ったときに気付いたのですが、指揮とは「方法」ではなく、自分がどのような音楽を聴きたいのかという「理想の在り方」だとハッと気付いたのです。
 般若心経「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」とあるように、感覚器官を鍛えるということは、そこから受ける感性を鍛えなければならないことを示しているのです。そうです、“耳”が重要なのではなく、“音”が大切なのであって、耳はそれを受容する道具に過ぎないということに気付きました。指揮法に当て嵌めれば、棒を振る(指揮をする)ことは“手段”であって、“目的”では有りません。目的(何のために)は、人々が感動する音楽を作り上げることなのです。
 さて、それをどのようにして得津先生に伝えて行くか……?!
会社経営も全く同じで、会社という形態が大切なのではなく、その会社が果たす機能が如何に社会や社員に有益であるかなのです。この辺りが全ての分かれ目であると私は気付いたのです。

 

       この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/