M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第750号(2019.9.2~9.8)この世は全て催眠だ(491)〜「意識の半透過性」…バカから賢(かしこ)は判別できない〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(491
「意識の半透過性」…バカから賢(かしこ)は判別できない

 「めぐりあいの不思議に手をあわそう」
仏教詩人・坂村真民先生の人生の極意を謳(うた)った詩です。私は、自分の半生を振り返って、また多くの方々との出逢いの不思議が何故起こるのか……言い換えれば「」の不思議、「運命」の成り立ちの研究をしています。
 孔子が「立志」と言った三十歳。その年齢で“志”をハッキリさせるには、十有五にして学に志(こころざ)さなければなりません。十代から二十代に掛けての20年間にやらなければならないことを、年端も行かない年齢で果たして決められるのでしょうか。私は、無理だと思います。ですから、子供が生まれたら“後継ぎ”として、自分の志を踏襲させるような社会システムが生まれたのです。
 しかし、古来より「瓢箪(ひようたん)から駒」というように、突出した才能が現れ、とてつもない方向に人生の舵を切ることがあります。そのような人間は、身内にお手本がないのにも関わらず、自分自身を鍛え育てる道を見つけます。そのような人間は、まさに孔子曰く「吾、十有五で学に志し……」を体現します。
 このように、突然変異とも言われる人達の共通項は、幼少期に感受性(感動や感激の心)や集中力が人一倍勝(まさ)っていることです。このような人間を科学的に分析すると、現代では「発達障害」と言われている子供達の中には、私の見た限り2~3割の確立で天才的才能を持った人間がいます。しかし、これもそれを適切に見分ける人間(先生)に出逢わなければ、本当は「集中力溢れる人間」なのに、「気が散って落ち着きのない人間」と判断され、その才能を下手をすると潰されてしまいます。古来より「天才と○○○○は紙一重」というように、凡人から優秀な才能は見抜けないものです。つまり口悪く言うと、賢い人間からは、バカの度合いを「大バカ、小バカ」と判別できても、バカからは「大かしこ、小かしこ」などとランク付けは出来ません。これが「意識の半透過性」で、とてつもない才能は凡人には狂気にしか感じられないのです。それでも「凄い!」と感じたとき、彼らを我々は“鬼才”と呼びます。

 

★★感じることで磨かれる「サイコ・サイバネティクス」★★

 このように、子供時代はどの方向に才能が芽ばえて行くのか分かりません。従って、学校という通り一遍の教育によって彼らの集中力や記憶力、興味の度合いを、平等にLessonすることによって計るのです。さてさて、このようなやり方で、凡人が天才を発見できるのでしょうか……?
 今津中学校の校訓の第1箇条に「先ず、考えよう!」とありました。しかし、我らが得津武史先生は「考えるな!感じろ!」と正反対のことを言うのです。私は、その理由を尋ねると、先生は、
 「悪い頭で考えて、良(え)え答えが出るわけがない!
と、すこぶる明快な回答です。そして、
 「考える頭には、良(え)え悪いの差があるけど、感じることは平等や!
と言って、天ぷら棒の雨を頭に降らせるのでした。確かに頭脳明晰な者も、ボーッとしている者も、天ぷら棒の制裁の痛さは一緒です。この同じ痛さから始まって、その痛さに対する反応は、それこそ人さまざまです。いつまでも同じように天ぷら棒の雨の中にいるのか、その痛さから逃れるために何をすれば良いのかと感じる心を育てるのは、それこそ“感性”に依ります。この感性は、音楽を例にとると、その演奏が「美しいか」それとも「下手くそ」かの判別能力に転化されてゆきます。人間は、一度「美しさ・快適さ」を感じると、二度と元の感性に戻ることはありません。一番良い例が食事です。美味しいものを知った人間のことを「舌が肥える」というように、感覚感性はそれぞれ発達速度は異なるものの、一度感じてしまったら「その上」を目指すように神は我々を創りました。
 毎年、新入生が入部し、上手になった3年生が卒業して行く輪廻のような繰り返しをする学校のクラブに於いても、吹奏楽部や野球部に留まらずあらゆる人間が関わるものは、その技術や審美眼は“感じる”ことによって、それを自分も体現したいという欲求が芽ばえ、それを目標として頑張ってゆくのです。その時、指導者(先生)は、私が世界一のフルーティストであるジャン・ピエール・ランパルのコンサートを聴いた時の感激を先生に話したときのように、
 「お前もランパル先生と同じように、眼(め)ぇ2つ、耳2つ、鼻と口は1つや。必ず、出来るからあきらめんと練習せぃ
可能性をしっかりと示唆する役目を果たさなければなりません。大概の人間は、考えることを「如何に楽をしようか」という横着の方向に使っています。もちろん我が中学の校訓である「先ず考えよう!」は、どうすれば可能になるかという努力の方向に心を向けよという意味で挙げられているのですが、人の性質は、頭脳明晰性を「楽と得」の方向に向けてしまうのが常なのです。しかし、感性・感覚はそれが美や快感であれ、痛さ、汚さ、不快感であれ、それを修正し居心地良くなろうとします。これがあらゆる生き物に備わっている「サイコ・サイバネティック(心の自動舵取り装置)」なのです。

 

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/