M&Uスクール

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5.ビルケナウ収容所

 

 アウシュヴィッツを出てからバスに乗り5分の移動でビルケナウへ移動し、あの広大な敷地に残っているビルケナウ収容所を訪れました。

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 このビルケナウ収容所は、最大のユダヤ人殲滅施設になりました。ナチのユダヤ人問題の最終的解決の実行に際して、1942年上半期から収容所の隣地で二つの最初のガス室が暫定的に動き始めました。一年後にドイツは収容所内に四つの大きなガス室と焼却炉を始動しました。2日に1度、あの収容所の中心に一両だけ残された輸送貨車(2010年設置)によって7000人のユダヤ人が送り込まれてきたランペ(降車場)らしき跡地が残されていましたが、集めたユダヤ人の数によりガス室を決めていたようです。それもガス室は収容所から数百メートルという距離にあるのですからたまりません。強制収容させられた人々は帰れるはずもないのに荷物をカバンに詰め込んで持っていたようですが、すべて没収、メガネや靴、装飾品などもそうだったのでしょう。同じ人間が人間に施した仕打ちですが、どんな心境であったのか想像すら私には叶いませんでした。

 

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 進入門は映画やドラマなどでも出てくる景色だと思いますが、実際にこの眼で見ても、死への改札口にしか見えませんでした。

 初日は女性と子どもの収容所側を視察しましたが、この中にアンネの日記で有名なアンネも連行されたそうです。

 

1944年11月に「回復可能な病人」f:id:muschool:20171009184706p:plain

としてベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された女囚3000人の中にアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランク(マルゴー)がいましたが、数ヶ月間をこの収容所で過ごし、1945年2月末から3月下旬頃にまずマルゴット、その数日後にアンネもチフスによって死亡しました。

 

 ガス室・焼却炉ⅡとⅢの残骸

 あまりにも観光地化されて、現在の広島の原爆ドームのような雰囲気でした。

 そばに設置された犠牲者追悼碑の前ではイスラエルの高校生達が花束を捧げてお祈りをしていました。付き添いの先生らしき人は2m近い大きな身体でしたね。

 

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 ※写真左から、破壊されたガス室、献花されていた花、ガス室の入り口跡

 

収容所の本浴場 サウナ

 収容所の中には冷たい水しか出ないのですが、ガス室と思って連れてこられた場所で、裸にされて死を覚悟していた時に、天井から出てきたものがチクロンBでは無く、水であったことだけで喜んだということも聞きました。ここまで来ても、やはり人間は生きたいと強く思うのでしょう。それとも、死にたくない、苦しみたくないという思いが先に起こってしまうものなのでしょうか。この部屋に立って、考えてみましたが答えはすぐには出て来るはずもありませんでした。とても生きる意思を持つことの難しさを問われているようでした。

 

 略奪した財産の倉庫群

 途中にユダヤ人の荷物や衣服、身につけていたものから価値のあるものを盗んでは倉庫に保管していた倉庫群跡地も見られました。日本の東日本大震災時にも、死体の指輪などを盗もうとする輩がおり、そのままでは外せない為に、死体には薬指の切断された遺体が多く見られたということでしたが、今の時代でも同じで、自分さえよければ他人や周りはどうあろうとそれで良いという、人間とは思えない存在の輩がいることは決して忘れてはなりません。きっと次の世で、自分の身に降りかかってくることは、奪われた人側の運命にしかならないことも知らずに愚かなことです。

 

 ガス室・焼却炉Ⅳ・Ⅴの残骸

 

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 完全に焼けていない人骨を粉砕した後、灰をトラックに乗せてヴィスワ川に振り撒きました。人骨の灰の痕跡が焼却炉区域や焼却用の窪みに現存しているようです。この土を掘ると人骨がまだ沢山埋まっていることでしょう。

 

 そんな上を歩いている私達もちょっと異様な気配ではありましたが、そんなことを考えている時、説明を聞きながら展示してある当時隠し撮りされた3枚の写真を見て、この辺りの気配が異様なものであることの意味を感じました。

 あのアウシュヴィッツの女性たちの髪の毛が山積みされたブースと同じ感覚でした。

と言うのは、この辺りの森では強制連行させられてすぐに衣服を脱がされ、裸のままシャワーを浴びると嘘を言われ、自らの足でガス室へ歩いて入っていったのです。また、その恐怖はそれだけに留まりませんでした。

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その死への順番を待っている人達がその後ろに写っていましたが、何も分からないのか、少し和んだ感じの顔も見受けられました。なんとむごいことを平気でさせているのでしょうか。そんな森は今ではひっそりと静まりかえり、きっと当時と変わらない景色だけ残していると思います。粉々にされたガス室でしたが、そこに辿り着くまでの道は、その当時のままなのでしょうか、今回の旅で二つめに気持ちが悪くなった道でもありました。でも、不思議に涙が零れそうになったのは女性の髪の毛の山積みをちらっと見た瞬間だけでした。なぜ、ここでは涙がでないのか?そう自分ながらに不思議に感じていましたが、涙が出るよりもあまりにも悲惨な光景が私の脳裏に映し出されていたから、涙さえもその怖ろしい気配に凍っていただけなのかも知れません。雪が積もって少し薄暗い状況であると、もっと違ったものを感じる場所であると思います。次に訪ねる時は、もっと雪が降っているような寒い時がより良いのかも知れませんね・・。

 

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 最後に、ビルケナウのバラック(男性収容所)の中を視察しました。トイレは手動?の水洗でしたが、隣の人とひっついて排泄しなければならないほどの間隔で、流す水は顔を洗った後の少量の水だけなのです。 現在は綺麗に補修されており匂いなどは感じることはありませんでしたが、当時は当然ながらもっと汚く匂いもすごく臭い状態で、顔を洗う桶も一つで全員分だったため、洗わない方が病気にならずに済んだのではないかということでした。ウォシュレットに慣れている私は、それがないだけでも不自由に感じる体質になっているのに、こんなトイレは耐えられないのは当然です。でも、ここで立派に生き延びた人もいるのですから、生かされているという意味をしっかり考えないといけません。

 

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 収容させていた寝床も木造でしたが、3段ベッドで1つのベッドに3段×7~8人は寝ていたようです。太った人などいなかったでしょうが、子どもでもきつい状態だったと思いました。

 

 

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 右にHPから引用した白黒写真がありますが、このような状況だったのです。ホテルに戻ると大きなベッドに一人です。どれだけ自分の今の生活環境が平和で贅沢三昧なのかが身に染みました。

 

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 冬の気温はマイナス20度になるそうです。この芝生が全て雪で埋もれた状態であれば、どれだけ怖しい景色に変わるのでしょうか。写真では想像できない雰囲気がそこにはまだ残っていました。こんなビルケナウ強制収容所の夜を中で経験すればと思うとぞっとするものが背中に走ります。戦後に生まれた私達に課された世界共通の誓い、それは人類平和です。

無意識に手を差しのべてあげられる行為ができるように、これからも精進したいと思います。それから、日々の生活の中で、いじめや虐待も行われているのが実態ですが、現代人の中にもカポと同じ様な性質の持ち主が大勢いることも忘れてはならず、梅谷先生の感じられた「社長はみな社員に対してこの当時のカポと同じことやっている」こと。「家族を捨てよ」と言われた真意もここに来たからこそ理解できたのでしょう。

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