M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

2.ユダヤ人の歴史

何も知らずに旅に出る前に、ユダヤ人の歴史的な疑問を学ぶ事にしました。

 

何故、ユダヤ人はそこまで迫害されるのか? 

 ユダヤ人国家イスラエルとアラブ諸国との紛争は、4度の中東戦争を経て、未だ終結していません。2006年7月12日から始まったイスラエルとヒズボラとの紛争では、既に1200人が死亡しましたが、このような犠牲は日常化しています。

 ユダヤ人が最新兵器でパレスチナ人に対抗するのは、彼らのテロを怖れてのことですが、パレスチナ人がテロ行為に出るのは、ユダヤ人のようなハイテク兵器を持たないからです。「人を殺すのは間違っている」という論理で解決できる世界に彼らは生きていません。彼らは迫害と虐殺の被害者であり、同時に加害者でもあるのです。

 そして、いつ終わるとも知れないこの戦いは、既に3000年の歴史を刻んでいます。

 

 ユダヤ人の定義は、宗教的要素である「ユダヤ教徒であること」、また、人種的要素である「母親がユダヤ人であること」のどちらかを満たせばユダヤ人となります。

 実際にイスラエルの国会は「ユダヤ人とは、ユダヤ人ないし、ユダヤ教への改宗者を母として生まれた者」という2つの定義を立法化しているのです。

 

いつから迫害が始まったのか = 出エジプト

 ユダヤ人から連想されるのは、やはりアウシュヴィッツ強制収容所、ホロコースト、

ナチス、ヒトラー、人種差別、迫害、虐殺など全て差別と迫害に集約されています。

 ユダヤ人に対する差別と迫害の歴史上で最初に確認される迫害は、紀元前13世紀の

「出エジプト」です。この事は、映画「十戒」で知られるようになりましたが、この頃のユダヤ人の一部はエジプトの地で暮らしており、この頃からエジプト新王国による差別と迫害を受けていました。やがて、予言者モーセが現れ、ユダヤの民を率いてエジプトを脱出します。その後、聖なるシナイ山の頂上で、神ヤハウェとの契約(十戒)を授けられました。これが後の「ユダヤ教」へと繋がることになります。

 

 十戒とは

 ヘブライ人を率いて「出エジプト」の途上にあったモーセが、シナイ半島のシナイ山で、ヤハウェ神から授けられた戒律。旧約聖書の『出エジプト記』第20章にある十戒(Ten Commandments)は以下の10ヶ条です。

  1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。

  2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。

  3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。

  4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。……

  5.汝の父母を敬え。

  6.汝殺すなかれ。

  7.姦淫をしてはならない。

  8.汝盗むなかれ。

  9.隣人について偽証してはならない。

 10.汝の隣人の家をむさぼってはならない。

 

 この出来事は、ユダヤ人にとって重要な意味を持っています。何故なら、これがユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となるからです。

 

 モーセの死後、後継者ヨシュアに率いられたユダヤ人は、ヨルダン川を渡り、イェリコの町とその地域を征服します。その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王とソロモン王の治世で最盛期を迎える事になります。

 ところが、その繁栄も長くは続かず、ソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と南方のユダ王国に分裂しました。その後も、 北イスラエル王国はアッシリア帝国に紀元前8世紀、ユダ王国は新バビロニア王国に紀元前6世紀それぞれ征服されています。この時、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられましたが、これがあの有名な「バビロンの捕囚」です。ただ、「捕囚」とは言え、全員が捕虜になった訳ではありませんが、多数のユダヤ人が虐殺されている「出エジプト」に続く、第2のユダヤ人迫害であったと言われています。その後、その新バビロニアもアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまいましたが、新しい支配者ペルシャは、新バビロニアやアッシリアに比べ寛大な帝国でした。納税を怠らず、謀反や反乱を起こさなければ、生活はもちろん、習慣や文化も保護されたのです。一方、アッシリアは歴史上最も過酷な属国支配で知られており、反乱でも起こそうものなら、首謀者とその側近は、身体の皮をはがされ壁に貼りつけられたのです。このペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらし、紀元前538年、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのでした。彼らは帰還後、神殿を再建し、その後、唯一神 ヤハウェを信じるユダヤ教が成立しました。

 これ以降、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになったのです。

 

 「出エジプト」と「バビロン捕囚」から、ユダヤ人が3000年も前から差別と迫害を受けていたことが理解できます。しかも、国や集団ではなく「民族」という括りです。 さらに、その1000年後、ユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件が起こります。

 それは、イエス キリストです。イエスは宗教上の規則にガチガチに固まってしまっていた当時のユダヤ教を否定したのですが、それに多くのユダヤ人が賛同したため、当時のユダヤ教の上層部はイエスの動きを警戒するようになり、最終的にユダヤ人を支配していたローマ帝国にイエスを犯罪者として引渡し処刑させたのです。

 

 こうしてイエスは処刑されたのですが、刑が実行される際にローマ帝国の役人(ユダヤ属州総督)ピラトが、ユダヤ人たちに「イエスの死は君らの責任になるのだがいいのか」と尋ねたところ、「責任は子孫にも及んでもいい」という答えだったのです。

 

 キリスト教徒にとってユダヤ人はイエス・キリスト殺しの真犯人となり、ユダヤ人は悪い奴らだとしてキリスト教世界(ヨーロッパ)において、ユダヤ人は長年にわたり迫害されることになりました。イエスは、ひたすらムチ打たれ、血まみれになり、ゴルゴダの丘で十字架刑に課せられます。そして、イエスをローマ帝国に告訴したのはユダヤ教徒です。さらに、銀貨30枚でイエスを売ったユダもユダヤ人でした。イエスを迫害し、抹殺したのはローマ帝国でもヘロデ王でもなくユダヤ人であるという主張がそこにあります。このことは、キリスト教本流をなす宗派や、イスラム教の信者たちにユダヤ教徒への根強い不信感と憎悪を植えつけてしまいました。そして、このユダヤ人への偏見は、差別と迫害とともにイエスの死後2000年経過した現代まで存続しています。

 

 イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まりました。ローマ帝国時代、キリスト教徒は、さまざまな差別、迫害、虐殺を受けましたが、313年、ミラノ勅令が公布されます。この勅令で、キリスト教が公認されただけではなく、教会がそれまで受けた損害の賠償まで保証されることになりました。こうして、キリスト教は完全な勝利をおさめ、それに反動するように、ユダヤ人への差別と迫害が始まったのです。

 

 ユダヤ人が迫害された3つの理由

 

1)宗教的な理由

  前項で述べたように、ユダヤ人がイエス・キリストを間接的に処刑したからです。

2)ユダヤ人の経済的成功

 ユダヤ人はヨーロッパ社会ではキリスト殺しとして嫌われていました。そのため、ユダヤ人は土地を持つこともできず、また就職できる業界も限られていましたので、ユダヤ人がつける業種はごくごく限られたものでした。ただ、その限られた業種の一つが金貸しだったのです。キリスト教では金貸しは良くないことと考えられていたので、ユダヤ人にやらせていたのです。ユダヤ人は生活のため金貸しを営まざるを得なかったのですが、キリスト教徒にとっては自分たちが禁じられている金貸しをするなんてとんでもない奴らだということで、余計に恨みを買ってしまったようです。

 この事業で財を成す者も出始め、やがて19世紀頃には国際資本を形成する者まで出始めました。当時は国を越えて移動するのは簡単ではありませんでしたが、ユダヤ人は世界中にちらばっていたため、キリスト教徒よりは国際資本を生み出しやすい状況があったのです。しかし、キリスト教徒にとって国際資本を生んでいくユダヤ人が異質に映って仕方がないから、世界征服を企んでいるのではという陰謀論もささやかれるようになったのです。

 

3)高い競争力

 ユダヤ人は全世界の人口に対して0.2%しかいないのですが、ノーベル賞の受賞者の20%はユダヤ人です。ユダヤ人は高い能力を持っていることで、少数ですが宮廷や大貴族に重用される者もいました。一方でマイノリティ(マイノリティ:対義語はマジョリティ、または社会的多数派であり、これは多数派に位置する為には強い立場にいる集団を意味しており、統めて世論を形成しやすい群というふうにも言えます。 数としては少数でなくても、差別や構造により社会的に弱い立場の集団を「マイノリティ」とする定義もあります。)であるユダヤ人が社会的に高い地位についていることに反発を覚える人は少なくないわけで、身分が低いユダヤ人に対して迫害が進みました。 結局、ユダヤ人がヨーロッパで迫害されたのは、イエス・キリストを殺したとする迫害の下地と、経済的、社会的に成功したユダヤ人への反感をキリスト教徒が抱いたからと言うことになります。

 

 中世に入っても、ユダヤ人への迫害は続きました。1096年、聖地エルサレムはイスラム教徒の支配下にありましたが、それを奪回すべくキリスト教「十字軍」の遠征が始まりました。ところが、エルサレムを奪回した十字軍はイスラム教徒だけでなく、ユダヤ人も虐殺したのです。ユダヤ教とキリスト教は、ともに旧約聖書を聖典とする同根の宗教なのに...。 この虐殺はユダヤ人への差別や迫害がいかに根深いものかを示しています。また、1881年には、東ヨーロッパで「ポグロム」とよばれる大規模なユダヤ人迫害が起こっています。「ポグロム」はロシア語で、ユダヤ人に対する略奪、虐殺を意味します。ユダヤ人への差別や迫害は地球規模であり、全時代に及んでいることが良く理解できるでしょう。

 

 そして、今回視察した土地、オシフィエンチム(アウシュヴィッツの町外れ)において、歴史上最も有名なナチスによるユダヤ人迫害が始まります。

 ナチス政権下のユダヤ人の差別、迫害、虐殺は凄まじいものでした。

 

 信じられないことに、ユダヤ人を法律の保護から外すという特別立法も可決されたほどです。これは、財産権・生存権・裁判権の放棄を意味し、ユダヤ人は財産を没収されたり、不当に逮捕されたり、裁判もなく処刑されることが認められたことになります。

 この時のユダヤ人への迫害は、正気の人間が、どれほど簡単に狂気になれるかを証明しています。ドイツは歴史的に見ても、勤勉と合理性を重んじる大国であり、ナチス政権が誕生する前のワイマール憲法は、世界で最も民主的な憲法と称賛されたほどなのですが、こんな大国が豹変したのです。

 

 ドイツの強制収容所で起こった迫害、虐殺や人体実験は、人間の中に悪魔が住んでいることを示唆しているように感じられます。最終的に600万人のユダヤ人が殺害されたと言われますが、さらに恐ろしいのは個別の所業なのです。

 「夜と霧」に書かれた人体実験や虐殺は想像を絶します。「夜と霧」はユダヤ人フランクルがアウシュヴィッツ強制収容所での体験をもとに著した書で、歴史的な名声を得ていますが、感受性が強い人なら全て読むことは難しいかも知れません。何故なら、ブッヒュンワルト強制収容所長の妻が作った電気の笠は、彼女が殺した囚人の皮膚で作られていたことなどが描かれているからなのです。

 

そんな中にも、ユダヤ人を救った人々がいました。

 

 ほとんどの人は、「民族や宗教で差別したり、迫害することは正しくない」と思っていますが、迫害が国家の方針ならそれを非難するにも勇気が必要でした。

 そんな希有の勇気をもっていたのがドイツの実業家 オスカー・シンドラーやリトアニ

アのカナウス領事館に赴任していた外交官の杉原さんです。

 

 オスカー シンドラーは強制収容所に送られるはずだったユダヤ人を自分の工場に雇い入れ、多くの命を救いました。さらに、ドイツの敗戦が濃厚になった1944年の秋、シンドラーは工場を故郷のチェコに移転します。この時、一緒に連れて行った従業員のリストが「シンドラーのリスト」と呼ばれており、リストにあったユダヤ人1200名の命が救われたのです。シンドラーは、戦後イスラエルに招待され、「正義の人賞」が贈られています。この実話は、スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」によって、広

く知られるところとなりました。

 

 また、杉原は、「東洋のシンドラー」と言われています。

 第二次世界大戦でドイツがポーランドを占領した時、多数のユダヤ人が隣国のリトアニアに逃れてきました。彼らは日本の領事館にも押しかけました。これは、日本経由で外国に逃れるための通過ピザを取得するためでしたが、日本の通過ビザの発給条件は厳しいものでした。しかし、杉原千畝はほとんど無制限にビザを発給し、その数は数千枚を超えると言われています。こうして、6000人のユダヤ人の命が救われたと言われて、戦後、イスラエルから「正義の人賞」が贈られています。

 

 最後のワルシャワでゲットー蜂起記念碑を見学しましたので、事項で少しふれておきます。

 

<目次へ戻る>