M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第485号(2014.8.4〜2014.8.10) この世は全て催眠だ(227)〜“宗教”は、人生成功への原動力!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

この世は全て催眠だ(227
〜“宗教”は、人生成功への原動力!

 「スクリーン投影法」の効果は如何なものでしたか。このように、想像のスクリーンに自分の方向性を求めることが出来るのは、我々の潜在意識に生命維持装置が装備されていて、それが“自動的に”自分自身を安全(無意識の成功)の方向に誘導するように出来ているからです。
 そのためにも、無意識(潜在意識)が活性化する状態を作ることが必要です。それは、つまり自分(我)を捨て去る事を意味します。そのために、座禅などの厳しい修行があるのです。しかし、我々には、その世界を求める精神も根性もなかなか生まれてきません。そのような世界を求める心が起きるのは、やはりそこに人生の大きな苦しみを感じ、それに押しつぶされそうになるなどの危機が機縁となって、己との対話(我を捨てる事への葛藤)を求めるようになるのです。つまり、「苦」は、我々人間が自分の中に住まうもう一人の自分(潜在意識)と対話し、この世に生を受けた意味(生命の実相)を感受する(悟る)ための起爆剤なのです。
 我々凡人が歩むぬるい人生からすると、このような厳しい修行などに挑む心は、出てきてほしくないというのが本音ですね。でも、小さな迷い(本人は一大事と感じるのですが…)は山のようにやってくる!そのためにも、このスクリーン投影法を身につけることで、「我」を捨て去る初歩の訓練になることは確かです。
 それは潜在意識の法則の中で、ハッキリしたイメージ化が出来るときは、心が安定し、それをかき乱す要素が減少して、冷静な判断が可能になるからです。
 そして、プラスとマイナスの状況を同時に想像し、充分討論できたなら、それを一つにスクランブルして、後は、自分の無意識(生命維持装置=安全な方向性)に任せてしまうのです。
 浄土真宗の開祖・親鸞上人「後は、全て阿弥陀様にお任せします」と説いたのは、阿弥陀仏を潜在意識と置き換えれば、その真相が明快になり、宗教が我々の実生活に実用性をもって関与している証だと解釈しています。
 
★★もっと手軽に、手のひら討論法!★★
 さて、スクリーン討論法で、白いスクリーンをイメージすることが出来た…すなわち、我を捨てることが出来て集中力が増した状態を作ることが出来たあなたは、より手軽に、自分の迷いを討論することが出来ます。
 スクリーンの代わりに両方の“手のひら”を使うのです。
深い呼吸で自分自身をトランス状態に誘導した後、軽く瞑目し、実際に手のひらを左右に広げ、右手に賛成論左手に反対論を乗せます。スクリーンに投影したように、左右の手のひらに乗せてゆくのです。どんどん乗せて山盛りにしてゆきます。その時、ひとつ乗せる度に明快にハッキリと正確に自分自身の意識を理性的に分析してゆきます。その時、決して感情的になってはいけません。
 例えば自分が一つの物を欲しいと思ったときなど、感情的に欲しくてたまらなくなりますが、もう一人の冷静な自分(潜在意識)に監視させることです。手に入れた物を長いこと使って飽きない自分がいるかどうか、例えば、欲しいと思っている車に、2年も3年も乗って飽きない自分がいるかどうか……それを想像するのです。その想像を自分の手のひらに俯瞰的に自分が車に乗っている姿を想像するのです。その時、時間がたっても飽きずに行動しているかどうかなど、じっくりと見てゆきます。
 今度は反対に、嫌になってしまった自分を想像します。そして、スクリーンの時と同じように、充分討論したら、手のひらを中央で合わせて合掌し、無意識の結論を待ちます。
 潜在意識は自分の未来の姿の方をクッキリと映し出し、存念にないものは色あせて、薄れてゆくことで確認できるでしょう。これが無意識……つまり潜在意識の判断なのです。
 我々人間は、自分というものを錯覚してみているようです。脳で考えた自分、心で感じた自分、身体や肌の感覚から判断している自分など、少なくとも三者が厳然と存在するのは、ちょっと冷静になれば分かることです。しかし、それら脳・心・身体を統括している潜在意識の存在まで意識できる人は殆どいません。
 潜在意識は生命維持装置ですから、その働きをピュア(純度を高める)な状態にすれば、より正しき方向に導いてくれるのです。先にも述べたように、阿弥陀如来を潜在意識と解釈すれば、宗教は我々人間がその我欲の為になかなか気付くことの出来ない世界を、観念を通して教えてくれているのです。そして、その観念に気付くために、仏教者は修行を行い、その修行に挑む自分……延いては生命の実相に迫る自分の切っ掛けは、“苦”がもたらすのです。従って、日蓮宗などでは、己に降りかかる“苦”を「法難(ほうなん)」と呼び、それに耐えうることと、法難が来ることで仏に見いだされているという観念を同時に体得させようと教義が編み出されたのだと思います。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/