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今週の喝 第183号(2008.10.20〜2008.10.26) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(5)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(5)

 さて、先週はなぜ楠木正成をテーマにしているかをお話ししましたが、話を本題に戻して、彼の活躍ぶりや、戦略戦術について見てゆきましょう。
 赤坂城や、大阪・天王寺の戦いぶりからも分かるように、正成は、一つ一つの戦に対して「何のために」という目的意識を明快にしており、その目的のためには手段を選ばなかったところに、固定観念の打破がありました。
 戦というのは、その戦いに勝つだけではなく、負かした相手方が二度と戦を仕掛けてこないよう、怖じ気づかせることもその戦略に組み入れたところに、正成の英知が輝きます。
 そこには、赤坂城の籠城作戦によって、鎌倉幕府の弱体化を天下に喧伝することを狙ったり、天王寺のかがり火作戦(バックナンバー楠木正成(3)参照)によって敵を疲労困憊させ、戦意をくじき、厭戦気分を蔓延させるなど、zxしていました。
 その根底に流れる思想は、武田信玄が唱えた「人は石垣、人は城、情けは見方、仇は敵」を先駆しているものであります。だからこそ、正成のような「悪党」呼ばわりされた者を、本来なら目通り適わない高貴な後醍醐天皇が召し上げたことに、忠誠の誓いを立てたのも理解できます。

=楠木正成の知謀=
 見事なまでに兵法を駆使した楠木正成は、鎌倉幕府側から見れば目の上のタンコブ!北条氏は正成の息の根を止めるべく8万騎の大討伐軍を追討に派遣します。これを迎え撃つ正成は、わずか千人の兵と共に、赤坂城より奥深い千早城に籠城します。
 幕府軍は大軍勢でこれを包囲したものの、先回の赤坂城の戦いで、岩や大木、あげくに熱湯や糞尿までぶっかけての応戦に、さすがの幕府軍も、今度はどんな策略を用いるのかと警戒するあまり、遠巻きに見守るばかりで近づくことが出来ません。そして評定(作戦会議)の末、2年前と同じく「兵糧攻め」を選びます。
 しかし、今回は少々事情が違います。幕府軍はなまじ8万騎という大軍勢を繰り出した結果、先に兵糧が尽き飢えだしたのは、包囲している幕府兵だったのです。人数が多いとは、「多勢に無勢」で有利な条件ではありますが、幕府軍は各地の守護大名達の連合軍であったため、兵站(へいたん=後方に位置して、食料や武器を供給する役目の部署)を上手く開くことが出来ないままの戦いでした。
 太平洋戦争において大日本帝国は同様の失敗をします。「♪ああ、堂々の輸送船」と歌にも歌われた日本軍は、シーレーンの確保(航路を安全にすすめるように敵を排除すること)もしないまま、南方へ兵員や食料を送り出したため、ほとんどがアメリカ潜水艦の餌食になりました。
 軍隊(=会社)は人間が構成主要因であるが故に、食料の確保の上に戦を考えるのが常套です。しかし、幕府軍にはこの概念が無かったのでしょう。その点、正成は、心から人を愛し、その人々が一団となった時の相乗効果を熟知していたのです。武士も農民も区別無く大切にしたので、眼前にたむろする大軍とは戦わず、その補給路をアメリカ潜水艦よろしく叩き、敵の食料を絶つため「千早城」そのものが囮として用いられたと解釈しても良いと私は考えます。そして、山中で飢餓に陥った幕府軍に対し、正成軍は、抜け道から城内へどんどん食料が運び込まれた為、3ヶ月を経てもみなピンピンしていたのです。

 「腹がへっては戦は出来ぬ」のことわざ通り、兵糧の尽きた幕府軍からは、数百人単位で脱落・撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになりました。
 この報は、いち早く伊賀の国(忍者発祥の地)の者達を初めとして多くの間者達によって、諸国に喧伝されました。ここが正成の戦略家としての才が輝くところです。
 「幕府軍、恐れるにたらず」
これまで幕府の軍事力を恐れていたために従っていた各地の豪族が、次々に蜂起し始め、ついには、幕府内部からも足利高氏(後の尊氏)、新田義貞ら歴史に名を連ねる者達が反旗を翻します。高氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻めに入り、執権・北条高時を討ち取ります。
 正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたことになるのです。

(教訓)
 人の振り見て我が振り直せ!
 歴史は自分の事と思うて学ばなあきまへんで。


この続きは、また来週……('-^*)/