M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第179号(2008.9.22〜2008.9.28) 〜偉人に学ぶ……楠木正成(1)〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる
潜在意識ってどんなもの?

偉人に学ぶ……楠木正成(1)

 2006年から毎年この時期になると、Noble oblige Cncert「武士道」と題して邦楽と洋楽のコラボレーション・コンサートが開催されます。フルートは私・梅谷忠洋が担当し、尺八は北島三郎さんの歌で大ヒットした「与作」のイントロで有名な坂田誠山さん、そのほか琴・馬頭琴・チェロ・ピアノ・パーカッションなど不思議な取り合わせの音楽会です。
 “武士道の精神を音楽で表そう”という画期的なこのコンサートは、第一回目は新渡戸稲造博士が世界に喧伝した「武士道」そのものの在り方を、第二回目は、その武士道を自ら体現した幕末の志士“山岡鉄舟”の生き方にスポットを当てて、アメリカの新進作曲家M.リーガン氏、D.R.ウォーマック氏の両名により、大和魂が不思議なサウンドで語られました。
 おかげさまで、過去二回のコンサートは満員御礼の盛況でした。そして、今回は鎌倉時代と室町時代の狭間で後醍醐天皇に仕え「建武の新政(中興)」を支えた“楠木正成(くすのきまさしげ)”の生き様を見直し、当時とそっくりの現代社会で、どのような生き方をすればよいのか、楠木正成は何を悟り、なぜあのような行動に出たのかを探って行きます。
 そこで、今週の喝でも、戦前の日本人で誰一人として知らないものがいなかったこの超有名人・楠木正成、そして現代ではほとんど忘れ去られた感のあるこの人物から、今の日本人に欠落しているものは何かを見てゆく事にします。

=楠木正成とは何者なのか=
 楠木正成と言う武将については、正直に言ってほとんど分かっていません。彼が歴史に名をとどめているのは、元弘元年(1331)に挙兵した時から、建武三年(1336)の神戸湊川での自刃までのわずか六年間ほどに過ぎません。日本史において、これほど有名であり、且つ、その前半生がほとんど不明であるところが、また、歴史研究家にとって魅力ある存在なのだと思います。
 生まれは、現代の地名で言うと大阪府でただ一つの村である南河内郡千早赤坂村。幼名は多聞丸(たもんまる)。生年に関しては確実な資料はありません。そして、北条氏の鎌倉幕府が作成した御家人帳(直属の家来の名簿)にもその名はありません。当時の鎌倉幕府は、徳川幕府のように、全国の大名を全て統括していたわけではなく、特に関西の方では朝廷の権威の影響や、また幕府の威光の失墜と共に地方の豪族が、その土地の産業奨励などで権力を持ち、群雄割拠の様相を呈していました。そんな中で、楠木正成の生まれた河内一帯は水銀の売買や、商業、運送の利権で力を付けてきたため、これを阻止し独占しようとする幕府と常に対立関係にありました。
 従って、楠木正成のような御家人ではない地方豪族は幕府にとってはとんでもない輩であるので、「悪党」と呼ばれました。
 楠木正成の生まれた鎌倉幕府末期は、元寇から半世紀が経ち、幕府には与える恩賞もなく権威も失墜したうえ、執権である北条高時は、政治への興味を無くし遊興三昧の日々という有様でした。そして、民には重税を課し、世の秩序は大いに乱れました。そこに理想に燃えた後醍醐天皇が、1331年幕府妥当を目指して京都で挙兵します。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして、中々倒幕軍に加わる者はいません。この時、いち早く馳せ参じた武将の中に正成の姿がありました。(三十歳後半という説があります。)
 天皇に謁見して、戦への意見を求められた正成は、
「武芸に優る関東武士に正攻法で臨んでも、勝ち目はおまへん。頭使(つこ)うて策略をめぐらさな、勝機はありまへんで」
と率直な意見を述べ、後にそれをしっかりと証明して行く兵法の大家でもあったのです。
 地元に戻った正成は、山中に赤坂城(城と言うより砦といった方が適切かも)を作りここを拠点に挙兵します。挙兵と言ってもわずか500前後。これに対して幕府軍は数万の討伐軍を差し向けます。甲冑に身を固めた幕府軍に対し、楠木軍の大半は普段は農民である地侍です。ほとんどの者は兜もなく、上半身が裸の者までいました。
 この粗末な城と兵を見た幕府軍の武将からは
「きゃつらに一日でも持ちこたえてもらわねば、恩賞にあずかれぬわい。ワッハッハ!」
と嘲り笑う声がします。
 そして幕府の兵が、油断し各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を登り初めた瞬間、突然城の外壁が崩れ頭上にどでかい岩や大木が地響きをたてて転がってきました。城壁は二重の塀だったのです。
 一対一で戦うことを名誉とする鎌倉武士に、武勲にこだわらず集団で奇襲をかけ、初戦だけで幕府側は700名もの兵を失いました。わら人形で欺き、熱湯や糞尿を煮たものまで掛けて応戦したと言うからまさに「やけ糞」の攻防戦でありました。
 その結果、幕府軍は力押しでは落とせないと判断し、持久戦に持ち込みます。この時の幕府軍の中に、将来の仇敵足利尊氏(あしかがたかうじ)もおり、
「正成はただ者ではないわい」
と、感心したといいます。


この続きは、また来週……('-^*)/