M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝  第760号(2019.11.11~11.17)この世は全て催眠だ(501)〜“人間性”第一!、“才能”は二番……!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(501

“人間性”第一!、“才能”は二番……!

 「努力した者が、 全て成功するとは限らないが、 成功した者は皆努力している」
素晴らしい格言です。これは面倒くさがりや、何事も無理だと言うことにして、できるだけ労力を払わないようにしようとする人間には、ドキッとする言葉だと思います。
 人間は、何事に於いても楽と得を主眼に置いて(しかも無意識に)人生を計ろうとしますが、やはりそこに成果は伴いません。ここにある“努力”は、数学的見地で言うと、
 「必要条件であって、決して十分条件ではない!」
のです。しかし、必要条件をクリアしない限り、成功や達成に近づくことはありません。マグレや偶発はあるにはあるでしょうが、これは我々人間の所業ではなく、天(神)の意志によるものである故、言わばご利益(りやく)です。そのご利益は、天の方に主導権がある故、我々には「おまけ」ですので、先ずは無いものと考えてゆくのが常套です。従って、弛(たゆ)まぬ努力をする“クセ”を我が身に修得することが、人生を相対的に観たときに、成功の必須条件です。
 そして、我々人間にとって最も努力すべきは、人間関係をシッカリと維持することだと気付いた出来事が、後輩のポンタ(中西昌文君)からの報徳学園応援歌「勝利の神は手をのべて」を中間部に用いた行進曲「以徳報徳」の作曲依頼でした。
 もし、私が中学在学時代に上から目線で後輩達を見下していたなら、いくらこちらに音楽的才能があろうとも(傲慢でスミマセン)、そのような依頼は無かったでしょう。人間は、まず人格的繋がり(人間性)があって、その上に才能が乗ってこそ、はじめて功を奏することをこの時つくづく感じました。

 

★★「心を込める」……その真の意味は!?★★

 染殿湯(そめどのゆ)の息子・中西ポンタ君から依頼を受け、生涯ではじめて作曲の仕事をし、その初練習で気付いたことは、何事にも“心を込める”ということでした。中学三年生の時、生涯で一番忘れられない屈辱(コンクール敗退)の憂き目を味わい、山田一雄審査員の言葉、「中学生にジプシーの心が解るのか?」の解答が朧気(おぼろげ)ながら感じ取れてきた様に思いました。
 不思議です!こんな感覚がやってくると、街を歩いても、新聞を読んでも、何をしても“心がこもっているのか否か”と言うことばかりが気になり、上滑(うわすべ)りの言葉を吐く商売人や友人が小さく見えるようになってきました。逆に言えば、自分が生意気になっていったのでしょう。
 そんなある日、新聞に「今回の政府の政策は、“仏作って魂入れず”である」という見出しがあり、これが切っ掛けで“目から鱗”が落ちました。
 物事には須(すべから)く、現象や形だけでは成り立たない……その裏には、必ず眼には見えない“心”や“意志”が存在する……そしてそれは、長年月を掛けて習慣化されるもので、心のこもった仕事をする人間といい加減な対応をする者の違いは、「時間をかける」かどうかかも知れないと感じたのです。私は、その時より、あらゆる事象を“帰納法的”(実際の現象から推測して真実に近づく)に観察するようになりました。
 何事につけ、物体だけでは成り立たず、そこに心を込めなければ、それは生気(せいき)を持たないという事への気付きです。我が愛する祖母が亡くなったとき、その遺体が冷たくなった理由がその時理解できたのです、生きているとは、そこに生命……が入っている故に、温かいので、そこから(霊)が去ったために冷たくなったのだと直感しました。生命(いのち)の入っていない身体(からだ)は、単なる物体にすぎません。同様に、どんなものにも生命(いのち)を吹き込まなければ、それは置物に等しいということです。
 では、「心を込める」とは、どういうことなのでしょうか。それは、単純にその事柄に能動的……自分から進んで理想の形を求める“意志”を持って臨むことです。従って、自分の心中に“理想”がなければ、「心を込める」ことなど叶いません。言い換えれば、それは「目標」をシッカリと心に描いて、その目標達成に対して「何のためにその目標を達成するのか」という“目的意識”を明快にすることです。その時、他意なく、脇目もふらず目的完遂のために、自分の心が集中していれば、その結果がどうであれ、まさに「人事を尽くして天命を待つ」心境を得られるのです。まさに、これこそ“悟り”の境地そのものではないでしょうか。
 これこそ真の“勇気”の正体だと私は思いました。勝とうが負けようが、生きていようが死のうが、成功しようが失敗しようが、心に全く悔いを残さない状態がおとずれるのです。禅に「両忘」と言う言葉がありますが、まさにこのような心境を言うのだと思います。
 我々の現世社会は、男と女、明と暗、高と低、勝利と敗北といった具合に、対立概念で物事を捉えてしまいます。しかし、私たちが全身全霊でもって真剣にあたったとき、これらの対立した概念は霧散し、清々しい境地と共に自分の心が、達成感、充実感、満足感で満たされます。これこそ、「両忘」を心得た世界なのです。逆説的には、「両忘」の境地に達すれば、物事の実相……その出来事の真の意味(raison(レーゾン) d'être(デートル))が理解できたことになると、私は、この作曲を機に感じたのです。

 

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/