M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第752号(2019.9.16~9.22)この世は全て催眠だ(493)〜苦難に負けず、音楽を続けて良かった!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(493
苦難に負けず、音楽を続けて良かった!

 さてさて、話を私の高校一年生に戻しましょう。
冷淡なまでに一つの目標に向かえば、それ以外のことは全く眼中にない性質……良く言えば、ものすごい集中力を中学3年間でたたき込まれ、何事も完遂しなければ気が済まない性格を身につけて多感な高校時代に突入しました。これを、悪い方から見ると、アスペルガー的で興味のないものには目もくれず、必要なことだけに固着する完全な発達障害の様相でした。
 ある程度、優秀な成績で市立西宮高校に入学したものの、このような良くも悪しくも一点集中型の性質ですから、人目には鋭敏な刃物のように映ったと後にクラスメイトから聞きました。そして、まっさらの村松製のフルートを用意してもらって、生意気にも迎えられるようにして西宮市吹奏楽団に入団し、その頃には演奏することに飽き足らず、楽団を演奏させるための編曲の勉強にも力を入れ始めておりました。
 今でも鮮明に覚えているのは、高校の吹奏楽部からオファーがかかったにもかかわらず、その緩い練習と子供じみたレベル(吹奏楽部の皆さんゴメンナさい・・)に、自分の居場所を見つけられず、女声が大半、男声はわずか(私を入れて)2人のコーラス部に入部したその当日、同じクラスにいたピアニストの杉野純子さんの奏でるピアノに感動し、彼女のリードで初めて両手で荘厳なトニック(主和音)を弾き、そのサウンドが胃から胸の辺りに重厚な和音が響き渡ったあの感動は、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に浮かんできます。
 そして、市吹にいた岡本先輩のすすめで「大和声楽教程」をむさぼるように勉強し、その夏休みは寸暇惜しまず、音楽三昧の生活を送りました。
 やがて爽やかな秋風が吹く頃には、一端の編曲作品を作るまでになり、そのことを知った得津先生は、(名前は覚えておりませんが)会社の社歌の編曲を依頼してくださり、初めて自分の書いた楽譜が45人の吹奏楽サウンドで演奏されたのです。
 自分が心に描いたとおりの音やリズムが響き渡ったあの感動は、それこそ忘我陶酔の境地で、しみじみと音楽との素晴らしき出逢いに感謝し、いじめに負けず楽器に精通してきたことを誇らしく思ったのでした。

 

★★摂理と信念の上に率先垂範!★★

 このように書くと良い事尽くめですが、先にも言ったように私の性質は一点集中猪突猛進型ですので、音楽への情熱は他の勉強の気散となって跳ね返り、ジワジワと学業成績が下がり始めたのです。
 そして、時を同じくして、母校の今津中学校も次のコンクールでも再び二位という憂き目に遭いました。(一位は宿敵豊島十中ではなく、初めて名を聞く出雲第一中学)
 この時は、我が師・得津武史先生も「またも負けたか八連隊!」と、失意のどん底で人生の岐路であったと後に語っていました。負けず嫌いに育てられた私は、高校の成績が降下し始めると、その敵(かたき)をとるべく本来なら勉強に勤(いそ)しむのでしょうが、ますます編曲や作曲法に全身全霊を傾け、時間を見つけてはフルートの練習に余念がありませんでした。このように音楽に“入魂”と言っても過言でないくらい精通していましたので、そちらの技量はめきめきと腕を上げ、その技量を周囲のものが認めるように、吹奏楽もコーラスも編曲を依頼されるようになりました。
 我が市西コーラス部は、女声コーラスであったため出版されている楽譜はお嬢さん的なおとなしいものばかりでしたので、私のアレンジでポップスやラテンなど、当時どこの高校コーラス部も歌わない歌を合同演奏会で披露し、一躍他校が追随できない異色のクラブに変身してゆきました。
 その分、ジワジワと成績が落ちてゆくのですが、落ちることの反動形成のように音楽に打ち込む毎日です。そして、二学期も終わりに近づいた頃、我が得津先生は私に、
 「もう一回、一から出直す。梅忠よ、助けてくれるか……!
と我が師とは思えない謙虚な言葉で、再び日本一を目指す決意を聞かされたのです。成績の下落と共に、ホツホツと湧いてくる音楽への情熱!この訳の分からない、まるで蟻地獄のような思考・行動感覚が、私自身を麻薬中毒者のように蝕(むしば)んでゆきます。
 この頃は、高校での一回目の進路査定の時期で、我が担任であった生物の上田智彦先生は、受験に必要な英・国・社の勉強に絞って打ち込むように指導してくれるのですが、その先生の優しさが嬉しくなり、これまた将来の受験に関係のない「生物」ばかりを勉強する有様です。
 とにかく、当時の私は「好きなモノにのめり込む」タイプの発達障害的人間であったことを明快に覚えています。いや、「好きなモノ以外は手に付かない」タイプであったといった方が正解でしょう。好きにならない限り、それがどれだけ大切だと分かっていても行動も食指も動かないのです。

 

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/