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今週の喝 第748号(2019.8.19~8.25)この世は全て催眠だ(489)〜「才能」と「努力」〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(489
「才能」と「努力」

 私はよく、「人間の能力に関して、才能はどれほど関与しているのでしょうか」と質問されます。TVなどで、音楽や美術、スポーツ、学術、芸能で有名になっている人達は、持って生まれた才能が関与していることは確かです。しかし、人間社会は、そういった人を憧憬の念で見る人達が富士の裾野のように広がり、その頂点に立つ人を目標に、自分を磨こうとする人間と、その偉大さ故に諦めて、自分をサポーターの位置に定着させる人間に分かれます。以前、このコラムでも書きましたが、一曲の音楽を聴いて、
 ①もう一度聞きたい。
 ②演奏したい。
 ③作りたい。
 ④興味が湧かない。
の、4つのパターンの人間がいます。私は、この差異を決めるのは、“感動と好奇心”の強さ、そして、その強さを決定するのは、生まれ育った“環境と出逢い”にその本質が潜んでおりまさに啐啄(そつたく)=鳥が卵から雛になろうとして内側から殻を割ろうとしたその瞬間に、親鳥が外側からそれを手助けするが如く、タイミングが良ければ才能が開花されてゆくものと思います。
 少々悲しい話ですが、得津武史先生の逝去以後、我が今津中学校吹奏楽部は、徐々に逼塞(ひっそく)してゆきます。その逼塞の前哨現象は、部員の減少として表れます。これは、現代の会社経営に於いても同じです。
 現役のリーダーは、その原因を少子化やクラシック離れとして社会環境や時代の所為にしますが、私は指導する側の情熱や感受性教育のやり方に問題があると思っています。後年、私は「武士道」の研究をするのですが、その切っ掛けは、武士達のモノの考え方や行動、姿勢に「格好良さ」を見いだしたからです。
 武士道の素晴らしさは、第一に新渡戸稲造が著述するまで、ハッキリとした姿の解説が為されていませんでしたが、それは「これこそ武士道!」というものを言葉や定義ではなく、正気を充実させた“行動”によって表現(Nonverbal)したところにあります。この意味で、得津武史先生は武士道を体現した戦士でした。

 

★★言葉は不要、身体で表現せよ!★★

 こんなことを言うと「不謹慎!」と叱られますが、私から見て得津先生自身、音楽的才能に溢れた人とは思いませんでした。申し訳ないのですが今は亡き先生の姿から、音楽のことを思い出したことは一度もありません。しかし、私たち悪ガキどもが集う今津、世間からは「掃きだめの街・今津」「文化果つる地」と言われた今津の街を吹奏楽のメッカにした功績は、「才能」というような甘美な言葉で表現するのは、安易で短絡です。まさに、得津先生は“努力の人”でした。
 この弛まぬ努力は、毎年毎年入れ替わるレギュラーメンバーを育てるルーティンワークにめげることなく、当然のこととして受け止め、後年は「優勝・金賞を取って当たり前!」という風評をものともせず、コンクールに立ち向かう姿でその姿勢を後進たちに伝えてゆきました。まさに、住岡夜晃先生の明言「継続は力なり!」を私たちに植え付けてくれたのです。それは、先生の身体全体から出るオーラ、魅力、正気、迫力となり、郷土の誇りとなって、その偉業は今も語り継がれています。
 人間・得津武史の素晴らしさは、全ての責任は自分に在るとし、才能の代わりに素直さと継続力を基に我々悪ガキ共を洗濯(ウォッシング)し、規律と行動の美しさ、もっと簡単に言えば「格好良さ」を叩き込んだのでした。ですから、プロとして頂点に立って輝く人間も、そこにその才能を見いだして磨いてくれる人間が啐啄しなければ、それは唯の「器用貧乏」になってしまい、人の眼に届きません。また、才能があって何事も素早く為すことのできる人間は、「ウサギとカメ」の童話の如く、その才能に気が感じられないため、努力の者にやがて負けてしまうことでしょう。
 才能より努力を旨として生きる人間の方が、周囲に感動を与えます。もちろん最高の形は、才能のある人間が弛まぬ努力を惜しまず自己鍛錬を欠かさない姿です。私は「才能に溺れた人間」を多く見てきました。溺れるならば初めから無い方が良いのかも知れません
 人の生き様は、頂点だけが良いのではありません。みんなが協力し合って一つの感動をもたらすことも素晴らしいことです。そんな意味で、我々今津中学校吹奏楽部で得津先生に扱(しご)かれた人間は、自分に内在する才能など意に介さず、ただひたすら目標を定め、確固たる目的をもって前進して行く気概・努力のエネルギーこそ真の才能であると自覚しているのです。

 

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/