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今週の喝 第739号(2019.6.17~6.23)この世は全て催眠だ(480)〜歌を忘れたカナリヤ2羽〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(480
歌を忘れたカナリヤ2羽

 “実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな”
ことわざは、実によく出来ています。現在、私は67歳ですが、この年になると、この世の全てのことわざは誠にその通りだと感じます。この実感は、恥ずかしながら、このことわざ通りに人生を歩まず、無視した結果から来たものです。
 先般、「わかい」とは「ばかい」ことだと書きましたが、それは、人間や社会の構造、そしてこの世を司る最大にして我々人間にはどうすることも出来ない要素である“時間”の概念が分かっていないので、「自分だけは例外だ!特別だ!」と思ってしまうことで、先人の知恵である“ことわざ”など若い時には眼中にないところを指します。
 石川洋先生が「人生逃げ場ナシ!」と喝破するには、きっと石川先生自身も大きな間違いを冒した結果、しみじみと体感されたのだと憶測します。人間に“例外”など存在しません。これは私の人生だけではなく、周囲の多くの人達の動向を見ても「その通り」になっています。お釈迦様が「因果応報」……原因と結果の法則を説いたのも、きっと自身の体験談からであったと思います。

 高校2年で、吹奏楽という集団ではなく、たった二人で演奏するFluteDuoで、アンサンブルコンテストに優勝した私と小林君に、もの申す市吹の団員は誰もいませんでした。いや、いなくなりました。たとえ、生意気で嫌がらせのような態度をとったとしても、誰も何も我々に忠告を与える人間は現れなくなりました。私たちは、有頂天になり誰に対しても傍若無人の言動をするようになりました。しかし、私には幸運なことに今日の自分を作ってくれたのは、恩師・得津武史先生であり、新品のFluteを用意して市吹に迎えてくれた指揮者・石川学先生であることは明白な事実でしたので、この二人には、尊敬の念をもって接し、心より恩を感じ、決して逆らうことはありませんでした。しかし、小林君は違いました。自ら市吹の戸を叩き、入団試験をパスして入ってきたのです。

 

★★「実力は人生の全て」なのか……?!★★

 今思い返すと、第一回関西アンサンブルコンテストの出場前に、曲決めをした時はヘンデル作曲の「二本のFluteのためのソナタ」(何番だったかは忘れました)を選んでいました。しかし、練習する内に、だんだんその曲が簡単すぎるように思い(ヘンデルさんゴメンなさい)飽きてきて、前日にシュルツのフルートソナタに変更したことを思い出します。こちらは装飾音符も完全なバロック様式で、演奏技術のみならず、その時代の演奏知識がシッカリとしていなければ乱れてしまいかねない難曲です。
 コンテスト前日に「曲が簡単すぎて面白くない」という理由で曲変更するというのは、「度胸がある」と言うより「舐めて掛かっている」と言った方が正解です。その頃の私たちは、毎日、夜の6時頃から9時頃まで二人でFlute演奏の技術を研究し、また、バロック音楽の演奏法やオーディオ機器の研究に余念がありませんでした。ですから、現在でもバロック演奏法については音楽大学の教授の方々とでも、その時節の奏法を語り合うことができます。
 現在は、クラシック音楽に於いて、楽譜は聖書のような存在ですが、バロック時代から古典派の初期までは、楽譜はメモ程度のものでした。そのメモ(楽譜)から、当時の演奏スタイルや社会に於ける音楽の位置などを研究することにワクワクした毎日を過ごしていました。
 こんな環境を二人が作ったのも、小林君の影響下(主導)にあると同時に、それらの研究成果や知識を武器にして、他の吹奏楽部卒業生に対して、「君らとは違うんだ!」という傲慢な心があったことは、今「心の科学」を研究する立場になって、初めて分かります。
 小林君の素晴らしさは、シッカリとしたフルートの先生について奏法を学んでいたことと、とにかく“良い音”を追求して、オーディオに関してはそれは素晴らしい知識と耳を持っていたことです。そして、その事をシッカリと私に教えてくれたことです。それに対して、私は、得津先生に根性を鍛えて貰い「知識を凌駕するのは練習量である」というモウレツ特訓魂を叩き込まれたことです。だから、私は、バッハだヘンデルだ、クヴァンツ、テレマン、パッヘルベルだ(皆古典派以前の大作曲家)と言われても、まるで頓珍漢!私の知っている作曲家は、中学時代に徹底的に演奏させられた行進曲の作曲家、スーザー(星条旗よ永遠なれ)と瀬戸口藤吉(軍艦行進曲)くらいのものでした。
 先般も申しましたように、この頃(思春期)に一つの能力に目覚めると、徹底的にその能力を伸ばそうとする自意識が芽ばえ、それが一つの目標に向かって稼働し目標達成が成されると、唯々“天狗”になるだけでした。
 高校生になってから、コーラス部で部長の指揮権を取りあげたこと、市吹での傲慢な態度。これら全てが、「“実力”というものが全てである」と言う誤った考えから出た、妄想であることに、将来徹底して天より気付かせられるのですが、この時は、「向かう所敵無し!」……有頂天の権化のような人間でした。本当に今思い返すと顔から火が出る思いです。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/